『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社)

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 朝日新聞の誤報問題で第三者委員会による検証結果が発表され、右派メディアやネットでは、またぞろ激しい朝日批判が高まっている。

「身内で固めた委員会でアリバイ的な検証をしただけ」「どこまでいってもごまかしでしかない犯罪隠しだ」、そしてお決まりの「売国朝日は責任をとれ」「反日朝日は廃刊しろ」──。

 まあ、最初から朝日を叩きたいだけの中身のない批判なんてうっちゃっておけばいいだけの話だが、しかし、今回の検証結果は、ネトウヨたちががなりたてているのとはまったく逆の意味で、非常に不満が残るものだった。

 今回、朝日は「甘い検証」といった世論の批判を恐れてか、第三者委員会に岡本行夫や北岡伸一といった保守系識者を入れていた。そして、検証内容もひたすら「朝日の誤報」を指弾するものばかりで、問題の本質については一言も触れられなかった。

 これまで何度も指摘してきたことだが、一連の朝日問題で我々が本当に検証しなければならないのは、そもそも朝日の誤報はここまで叩かれ、社長が辞任しなければならないようなものだったのか、ということだ。朝日バッシングの背後には、明らかに安倍政権と右派メディアによる歴史修正主義の策謀があり、朝日はそのプロパガンダのためにスケープゴートにされた。その問題が検証されないまま、この一件が幕引きになるのは、日本のジャーナリズムにとっては大きな禍根を遺すことになるだろう。

 しかし、最近、その問題を真正面から検証した本が出版された。青木理による『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(講談社)だ。

 最近はワイドショーのコメンテーターも務めている青木だが、もともとは共同通信のソウル特派員で、リベラルなスタンスをもつ硬派ジャーナリスト。朝日問題でも一貫して、過剰なバッシングの動きに疑義を呈し、『朝まで生テレビ!』などでも孤軍奮闘してきた。

 同書はその青木が朝日問題をテーマに書いた雑誌コラムの再録と書き下ろしルポで構成されており、朝日バッシングの風潮に抵抗する、はじめてのまとまった書籍といえるだろう。

 ただし、そのアプローチの方法は最初に結論ありきではなく、かなり実証的なものだ。青木は書き下ろしルポの中でバッシングにさらされた当事者である朝日の記者たちを直撃し、それがいかにフレームアップだったかを丹念な取材で解き明かしているのだ。

 その証言者のひとりが、朝日OBの植村隆だ。朝日記者として1990年代の初頭、韓国で名乗り出た元慰安婦の証言を最初に伝えた植村は、「慰安婦問題に火をつけた張本人」として最大の"戦犯"だと罵られている。

 しかも妻が韓国人である上、妻の母が日本の戦争責任を追及する韓国の市民団体の幹部だったことから、ネットには「国賊」「反日工作員」「土下座しろ」「腹を切れ」といった罵詈雑言が溢れかえり、一般週刊誌にまで「捏造記者」「慰安婦火付け役」と名指しで攻撃された。

 攻撃はメディア上だけではなかった。2014年3月に朝日を早期退職した植村は、関西の女子大に教員として再就職することが内定していたのだが、同大には嫌がらせや抗議の電話、メールなどが殺到。大学側が内定を取り消してしまう。

 また植村氏は現在、札幌市の北星学園大学で非常勤講師を務めており、ここにも嫌がらせの電話やメールのほか、学生に危害を加えることを示唆する脅迫状まで送りつけられ、北海道警が捜査に乗り出す事態となった。

 そればかりか、ネット上での誹謗中傷は植村の家族にまで拡大し、娘の実名や写真までさらされ、「反日サラブレッド」「自殺するまで追い込む」などと書き込まれている。

 だが、植村記者はほんとうに「慰安婦問題に火をつけた張本人」だったのか。91年8月11日、たしかに、植村は韓国の元慰安婦としてはじめて名乗りをあげた金学順の証言を他メディアに先がけて報道したのは事実だ。

 しかし、青木の取材によって、それはまったくたいした記事でなく、当時、ほとんど話題になっていなかったことがわかってくる。植村記者は金学順にも会っておらず、韓国で匿名の元慰安婦が証言した内容を伝えただけ。記事も大阪社会面でトップになったものの、東京本社版では翌日朝刊の4段という扱いだった。その3日後、金学順が初めて実名で名乗りをあげ、共同会見を開いて正式に告発したが、掲載したのは北海道新聞のみ、植村の朝日も含め、大手マスコミはこの会見をまったく報道していない。

 植村自身も青木の取材にこう答えている。

「いまになってそういうことを言われてて、僕を批判する人たちはあの記事が『慰安婦問題に火をつける超重要なスクープだった』なんて言うんだけど、当時はスク―プとか、特ダネなんていう意識、全然ありませんでした。実際、ほとんど、関心を呼ばなかったから」
「慰安婦問題に火をつけたとか、歴史を変えたとか、そんなことだって思っていない。もしそうなら、当時のソウル支局員がもっとバタバタして記事を書いているはずでしょう」 
 
 しかも、植村が金学順についての記事を書いたのは、この少し後、もう一回だけなのである。植村が慰安婦問題について書いた記事は全部で19本だというが、この2本以外はほとんど発表記事だった。

 取材の経緯についても同様だ。前述したように、右派メディアは植村があたかも、妻や妻の母と結託して、意図的に慰安婦問題を仕掛けたかのように書き立てているが、事実はまったくちがっていた。

 当時、大阪社会部に所属していた植村は別段、慰安婦問題に強い関心があったわけではなく、デスクから「夏の平和企画」として慰安婦探しを命じられたことがきっかけだった。

 妻が韓国人で、妻の母・梁順任が慰安婦への補償を日本政府に求める裁判を起こした「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会長だったというのは事実だが、彼女たちから植村記者に一切の情報提供がなかったことも同書で明らかになっている。

 というのも、金学順を聞き取り調査した挺対協と植村の義母が会長をつとめる遺族会は仲が悪く、義母は植村の記事が出る時点では金学順のことを知らなかったからだ。同書では、義母・梁順任の当時の日記が紹介されており、金学順が共同会見を開いた時、義母が彼女に対して冷ややかな感想を書き連ねていたことや、植村の記事が出て一ヶ月以上たった9月11日にはじめて金学順と会ったと記述されていたことが明かされている。

 さらに、植村が記事で従軍慰安婦を「女子挺身隊」と混同したことや、金学順が親に身売りされて「キーセン学校」に通っていたことを伏せていた問題でも、驚くべき事実が明らかにされている。

 これについては、読売新聞や産経新聞も激しい調子で朝日を糾弾していたが、実は読売新聞も金学順のことを伝えた紙面で「連行された約二十万人の女子挺身隊のうち「慰安婦」として戦地に送られたのは八万人から十万人」といった、誤用を犯していた。

 キーセン学校についても、91年12月6日に金学順が提訴した際、読売や産経も含めた全国紙5紙が夕刊でこれを伝えたが、1紙もキーセン学校には触れていないという。

 ところが、批判は朝日と植村だけに集中した。植村は同書の中でこう話している。

「僕は金さんのことを一度も『強制連行』とは書いていない。本文の中では『だまされて慰安婦に』って書いてある。それなのに、僕だけが攻撃され、他のメディアは攻撃されない。もちろん攻撃している人たちはほかを攻撃してもしようがなくて、朝日の植村を攻撃しなきゃしようがないんだろうけど」

 ようするに、植村はたまたま一番最初に慰安婦の証言を書いた、それだけなのである。記事はほとんど話題にならず、書いたのも20年前に2回きり。言葉の誤用や事実関係の掲載基準も他社とたいして変わらないレベルだった。そんな新聞記者がなぜこんな目にあわなければならないのか。

 しかし、この構造こそがこの朝日バッシングの本質なのだ。とにかく自分たちの誇りとやらを傷つける慰安婦の存在を否定したいがために、ほんのわずかな誤謬を探し出して、それを針小棒大に騒ぎ立て、「陰謀」「捏造」というデマを拡散し、スケープゴートを作り出して、「売国奴」という言葉で犯罪者のように血祭りに上げる。そのやり口は、それこそ関東大震災のときにデマをばらまいて朝鮮人を虐殺したやり口と同じだろう。

 しかし、当の植村はこんな目にあいながらも、慰安婦問題について冷静にこう語っている。

「結局、慰安婦問題を否定したがる人たちって、元慰安婦の人たちとほとんど向き合ったことがないと思うんです。おばあさんたちの声に直接向き合っていない。それで証言の食い違いみたいなところに固執して否定したがるのって、すごく残念な気がする。こんなことをいくらつづけても、世界から孤立しちゃうんじゃないかって気がしますね...」

 同書には、他にも、朝日で論説主幹や主筆まで務めながら「竹島を韓国にくれてやれといった国賊」と罵られている若宮啓文や、猛バッシングの渦中で東京本社報道局長を務めていた市川速水らへのスクープインタビューも掲載されている。

 世論におもねった第三者委員会の検証などではわからない、朝日問題の本質を知るためにも、ぜひ一読してみてほしい。
(エンジョウトオル)