12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (13)
【スケーター・高橋大輔の軌跡 part2】

 今年、引退を発表したフィギュアスケーター・高橋大輔。その軌跡を辿る──。

 06年2月のトリノ五輪が、高橋にとって初めての五輪だった。ショートプログラム(SP)で5位につけた高橋は、フリーで最終組となった。しかも、ド ローの結果は最終滑走。SPで90・66点を出したエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)を筆頭に、ジョニー・ウィアー(アメリカ)やステファン・ランビ エール(スイス)、ブライアン・ジュベール(フランス)、ジェフリー・バトル(カナダ)という錚々たる顔ぶれのスケーターの演技後になってしまった。

「練習を終えてから待っている間は緊張していなかったのに、滑り出した途端にすごく緊張して......。身体が全然動かなくて焦ってしまった」

 演技後にそう語った高橋は結局、フリーは9位で総合は8位。入賞とはいえ、悔しさの残る結果となった。

「全体的に落ち着かなくて、トーループを前に跳んだのを忘れてまた跳んで、頭の中は真っ白になってしまって......。4回転ジャンプもスピンも、練習中はできていたのに、本番ではバテてしまって失敗した......。不満いっぱいの演技でした」

 そう落胆しながら、高橋はこうも言った。

「昨シーズンの状態で五輪へ来ていたら、もっと大変なことになっていたでしょうね。焦ってしまっても今日の出来というのは、自分が成長したことだとも思い ます。守りに入ったのではなくて挑戦できたからよかった。これがスタートだと思って、もう一度初心に戻ってやり直します」

 演技終了後に呆然としていた前年の世界選手権とは違い、この日の高橋は、悔しそうな表情を見せていた。このシーズンはGPシリーズ初戦のアメリカ大会で 優勝し、ファイナルは3位で表彰台獲得。その自信に加え、「自分が戦う舞台は世界だ」と強く認識できたのだろう。トリノで見せた悔しげな表情は、それを確 信させるものだった。

 本気で世界トップを狙う意欲を持てるようになった高橋は、翌06−07シーズン、一気に成長した。初戦のカナダ大会で2位となると、NHK杯ではSPで自己最高の84・44点を出して1位になり、さらなる躍進を予感させた。

「カナダで自分の演技を出し切れなかったので失敗はしたくなかった。4回転を入れた構成ではないので満足というのはないけれど......」

 SP後にそう話した高橋は、翌日のフリーでは2シーズンぶりに4回転ジャンプを決める完璧な演技で163・49点を獲得。合計でも247・93点にして NHK杯で初優勝を果たした。そして12月のGPファイナルでは腹痛や吐き気がある最悪な体調ながら日本人男子過去最高の2位となった。

 その後、12月末の全日本選手権で優勝した高橋は、07年世界選手権東京大会に出場。世間の注目はこの大会で優勝した安藤美姫や2位の浅田真央、3位の キム・ヨナ(韓国)に集中していた。そんななか、高橋はSPで冒頭の3回転連続ジャンプが乱れて、「今シーズン最低の出来でした」と言うものの3位発進。 しかし、フリーでは4回転トーループの着氷で手をつくミスだけに抑えてトップの163・44点を獲得。合計でランビエールを逆転できなかったが、ファイナ ルに続いて日本男子過去最高の2位になった。

「うれし泣きをしたのは初めて。トリノを経験してからスケートに対する気持ちが強くなった。ステファン(・ランビエール)には勝てなかったけど、フリー(1位)の小さな金メダルがもらえたのはうれしい」

 こう話した高橋は、織田信成が7位になって翌年の世界選手権の日本男子の出場枠が3になったことに「これで日本の男子のレベルも上がってくると思うので、貢献できてよかった」と、満足の笑みを浮かべていた。

 そんな高橋が、さらにその才能を発揮するようになったのは、SPに『白鳥の湖ヒップホップバージョン』を使用した翌07−08シーズンだった。「このプログラムを作る前に、ニコライに連れられてニューヨークのマンハッタンへ行ってダンスレッスンを受けた」という。

  それまでも高橋のステップは「世界トップレベル」と評価されていた。しかし、ピップホップの曲に乗ったその滑りは、技術の高さを活かしたさらに切れ味の あるもので、これまでにはなかったような表現世界だった。「昔から音楽がかかると自然に身体が動き出していた」という高橋のダンサーとしての資質が前面に 出て、表現力でも高く評価されるようになった。

 その勢いは成績に直結した。GPシリーズはアメリカ大会、NHK杯で連勝。12月のGPファイナルでは、SPで1位になり、フリーではジャンプのミスが 出てランビエールに逆転されたが、総合2位になって3年連続で表彰台を獲得した。そして、12月の全日本選手権ではSPで2位に12点以上の差をつける と、フリーでは4回転トーループを2回決めて169・15点を獲得。合計254・58点で圧勝した。

「朝の練習でニコライに『今日はやるぞ!』といわれて心の準備をしていた。4回転が2本決まったのは初めてなので、そこは自分に拍手を送りたいけど、ステップやスピンは今シーズン初めてというくらいにバテてしまったので、内容的には不満です」

 高橋はそう言ったが、2位だった小塚崇彦との得点差は35点以上と、圧巻の全日本3連覇達成となった。

 その後、08年2月の四大陸選手権では、フリーで再度2回の4回転ジャンプに成功して175・84点を獲得。フリー、合計点(264・41)ともに、プルシェンコがトリノ五輪で出していた当時の世界歴代最高得点を塗り替えた。

 だが、優勝候補として臨んだ3月の世界選手権では「ある意味守りに入ったかな、というところもあって、アクセルを跳ぶ前に緊張してしまった」と、SPで はトリプルアクセルでミスが出て3位。そしてフリーでは「4回転は1本にしようとニコライに言われたが、逃げたくなかったので2本にした」という2回目の 4回転トーループで転倒。さらに中盤の連続ジャンプを予定していたトリプルアクセルでも転倒したうえ、最後の3回転ルッツに連続ジャンプをつけたことが、 4回目の連続ジャンプとの判定で0点になる痛恨のミス。結局4位と表彰台を逃すことになった。

「SPで3番だったから挽回しようと思って頭の中で考えすぎた。勉強不足です」

 高橋はうなだれていたが、それでも10年バンクーバー五輪のメダル獲得へ向けて、着々と準備を整えているのは間違いなかった。

 日本でフィギュアスケートは女子ばかりが大きく注目されていた時代、男子の存在感を引き上げてきたのが高橋だった。その彼を追う織田や小塚の成長もま た、高橋の存在があったからといえる。だからこそ、バンクーバー五輪で今までの功績の証として高橋にメダルを手にしてもらいたい──。周囲の誰もがそう熱 望していた。

 だが、07-08シーズンが終わると、高橋に突然の不運が襲いかかった。ニコライ・モロゾフコーチがライバルの織田ともコーチ契約をしたため、3年間続 けてきた師弟関係を解消したのだ。さらに、08年10月末の練習中、高橋はジャンプの着地で右膝を痛めてしまう。出場予定だった中国大会の欠場を決めて精 密検査を受けると、前十字靱帯と半月板損傷と判明。思った以上の重傷だった。

 五輪という大舞台がある09-10シーズンのひとつ前のシーズンでの大ケガ。08-09シーズンをすべて休養することになり、皮肉な運命を恨みたくなる気持ちにさえなった。
(つづく)

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi