『臣女』吉村萬壱 徳間書店

 妻が巨大化していく。SFの特質を「日常性への衝撃」と見なしたのは石川喬司だが、その説に沿えばこの小説は間違いなくSFである。衝撃度は大きい。

 しかし、ぼくは読みはじめてすぐに「ああ、これは文学だなあ」と思った。もちろん、SFであることと文学であることは、原理的に両立する。SFはジャンルであり、文学は表現である。そんなふうに思うのは、ぼくだけかもしれないが。

 文学の濃度を決めるのは、深遠な主題でも、先鋭的な技巧でも、切実な同時代性でもない。定型に収まりきらない表現性だ。ここでいう表現とは、文体や修辞法だけではなく、より広い「場面ごとの成りたち」である。論より証拠。『臣女』の序盤、語り手である「私」と妻の奈緒美の諍いの場面から引用しよう。

私は彼女の上に覆い被さり、暴れ止まらない体を仰向けに組み敷いた。すると彼女は私に向かって唾を吐いた。その唾はしかし私に届かず彼女の鼻の上に落下し、鼻息を吹き込まれて小さな鼻提灯が膨らみ、すぐに弾けた。

 ここは書きようでブラックユーモアにもなり、私小説的な露悪にもなるところだが、吉村萬壱はそのどちらへも傾かない。鼻提灯の小さな時間に、緊迫と弛緩が綯い交ぜになっている。この片づかない気分。

 ふたりの喧嘩の原因は私の浮気だ。私は新人賞を獲っていちおうデビューした小説家だが、それで生計は立たず、以前どおり高校の講師をつづけている。しかも常勤から非常勤へ降格されて、なんとも冴えない。ファンレターを送ってきた女と深い仲になったが、その女と浮かれてクリスマスをすごしたせいで、不倫が発覚してしまう。それが引き金となったように、妻の巨大化がはじまる。

 私は負い目があるものだから、歪んで成長していく妻を必死で介護する。巨大化には痛みがともなうし、大きくなった体は部屋のなかでは自由に動けない。異常な代謝のせいか皮膚にも異常があらわれ、得体の知れないさまざまな寄生虫が発生する。最初のうちなら医者に連れていくこともできたが、それは奈緒美が拒否し、事態が悪化するにつれて私も巨大妻の存在を世間から隠すことに専念しはじめる。しかし、巨大化につれて食糧摂取も増大し、排泄物の量も質も尋常ではなく(巨大化ゆえトイレはすぐに使えなくなる)、その処理だけでも大変な労力を要する。体だけではなく精神的にも変調して(清明なときもあるが、全般に退行しており、発作で凶暴化もする)、手に負えない。

 すっかり消耗した私は学校も執筆も疎かになる。巨大化が止まる保証はなく、このままだと貯金もほどなく底をつく。八方塞がりだが、そのさなかでも私は「すべてが終わってしまえば、この経験で凄い小説が書けるかも」などと考える。荒れ放題の部屋のなかで、原稿用紙に「巨女」と書いてみる。しかし、間違えて「臣女」と綴ってしまう。

 この「臣女」という字にも、喧嘩のときの鼻提灯と同じく、緊迫/弛緩の時間がわだかまっている。「巨」と「臣」の差は語義の違いではなく、たんに縦線二本が余計なだけだ。些細な、しかしどうしようもない違和。理屈で片づかない何か。

 ほんらいの世界は、そうした片づかない何かで充満している。しかし、ぼくたちはそれを片づけたことにして平静を保っている。それは生活だけでない。おおよその物語もおなじように理屈が通され、ぼくたちはそれを摂取して「普通」の感覚を繕いつづける。それは題材の問題ではない。宇宙や魔法を扱っていても「巨」が「巨」として収まるかぎりは、普通の物語なのだ。

 その普通を綻ばせてしまうのが、文学の表現だ。『臣女』の二本の縦棒。

 私と奈緒美を脅かす外敵は数知れない。近所に住むお節介な老人ども。ねちっこい性格の同僚(この男も小説家志望だがいまだデビューできずにいる)。軽い気持ちで毒を吐く私の母親。その母が訪ねてきたので、奈緒美は鍵のかかった部屋で息を潜める。私は母と顔を合わせないように外へ逃げる。煙草を喫しながら(禁煙していたが、妻の発症で「何か一つでも悪い事をしなければ」という気分になり、また吸いはじめた)、すでに別れた浮気相手のところへ行こうかなどと思案する。だが、不埒な開放感は長つづきしない。母が諦めて帰ると、すぐさま奈緒美が携帯電話で連絡をしてくる。しかも「すぐに戻りなさい」と命令口調だ。そのとき私の内奥から噴きだすのは、服従の喜びと憎悪の念。この矛盾した感覚。それは愛情か、倒錯か。

 ときおり奈緒美は、不倫への怒りをフラッシュバックさせ、発作を起こす。祈るように床に頭をぶつけつづけるのだ。それを収めようと、私はひたすら土下座を繰りかえす。この場面は、こんなふうに描写される。

 私は同じように土下座して、床に額を打ち付け始めた。最初の一撃はそれほどでもないが、三度目にして早くも痛みが蓄積して耐え難いほどになった。しかし途中で止めるわけにはいなず、少しずつ額の場所をずらして堪えながら、奈緒美が頭を上げると私が打ち付け、私が頭を上げると奈緒美が打ち付けるという共同作業を繰り返す。交互に立てる音はまるで夫婦で不気味な太鼓を叩き合っているようで、次第に頭もぼんやりして何をやっているのかよく分からない。互いのリズムが干渉し合い、速くなったり遅くなったりと緩急が付いてくるのがちょっと面白いような気もするが、額に盛り上がった瘤をうっかり打ち付けると泣きたいほど痛くて面白いどころではない。

「何をやっているのかよくわからない」「面白いような気もするが、面白いどころではない」----その境地が、巨大妻と暮らす私に何度も巡ってくる。この作品にはわかりやすいカタルシスも、単純なクライマックスもない。

(牧眞司)