総務省ホームページより

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 衆議院選挙。いよいよ投票日だ。メディア上では、これまで選挙のたびに繰り返されてきた「あなたの一票が政治を変える」「投票によって政治参加を」というセリフが相も変わらず溢れかえっている。

 嘘も休み休みいえ。その同じメディアが自民党300議席超を報道しているじゃないか。選挙結果は選挙前から決まっているのだ。

 たしかに制度上は、対等な個人が平等な一票を有しているということになっている。しかし政治制度上の平等の裏側には社会的不平等がコインの裏表のように張りついている。一介のサラリーマンより、カネと組織を握ってるやつのほうが政治的影響力を持っているのは当然だ。バラバラな個々人による政治意思の表明である投票を待つまでもなく、社会構造として、どのような政治集団が権力を握るかは決定されている。

 そんな選挙で安倍自民党が圧勝しようと、何も落胆する必要などない。選挙というシステムを、民主主義という制度を、根底から問い直してみれば、わたしたちにとっての政治とはもっと自由なものであることが見えてくるはずだ。

 現代日本社会では投票が民主主義の根幹だとされている。総務省HPにはこう記載されている。「ふだんのくらしの中で感じる思いや願いを、私たちの代わりに国や地域で実現してくれる人々を選ぶこと、それが『選挙』です。」

「私たちの代わり」になる者などまったく見出せない選択肢のない現実を前にしても、何とか妥協を重ねて投票すべきなのだろうか。自分が推したわけでもない政治家の決めた政策でも、選挙に参加した有権者である限り従わなくてはならないのだろうか。

 こうした民主主義に抱く疑問をすでに300年も前に深く考察し、明確な回答を提示している書がある。J.J.ルソー『社会契約論』だ。ルソーは主権が人民にあることを説いて近代社会思想の礎を築き、それは日本国憲法にも主権在民の宣言として生きている。

 わたしたちが小学校の児童会からはじまり国政選挙まで、この国で繰り返し民主主義のあるべき姿として教え込まれているのは「代議制民主主義」である。しかしルソーは同書のなかで、「代議制民主主義」が人民主権を否定するものであることを断言している。

 ルソーはこう語っている。

〈イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。自由なのは、議会の議員を選挙するあいだだけであり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷であり、無にひとしいものになる。人民が自由であるこの短い期間に、自由がどのように行使されているかをみれば、[イギリスの人民が]自由を失うのも当然と思われてくるのである。〉(光文社古典新訳文庫版より、以下同じ)

 わたしたちは、選挙という行為を通して、自由を失い、奴隷となるのだ。

 なぜなら、主権とは代表されることはありえないものだからだ。〈だから人民の代議士は人民の代表ではないし、人民の代表になることはできない。代議士は人民の代理人にすぎないのである。代議士が最終的な決定を下すことはできないのだ。〉

 であるのに、わたしたちはなぜに選挙によって「代表」を持とうとするのか。

〈市民たちの主要な仕事が公務ではなくなり、市民たちが自分の身体を使って奉仕するよりも、自分の財布から支払って奉仕することを好むようになるとともに、国家は滅亡に瀕しているのである。[兵士として]前線に出兵しなければならないというのなら、市民は[傭兵の]軍隊に金を払って、自分は家にとどまろうとする。会議に出席しなければならないというのなら、市民は代議士を任命して、自分は家にとどまろうとする。怠惰と金銭のおかげで、市民たちはついに兵隊を雇って祖国を奴隷状態に陥れ、代議士を雇って祖国を売り渡したのである。

 商業や工芸に熱中し、貪欲に利益を求め、軟弱になり、安楽を愛する。こうして市民たちは身をもってなすべき奉仕を、金銭で代用しようとするのである。[みずから奉仕する代わりに]思いのままに利益を増やし、そしてその利益の一部を[公共の奉仕のために]支払うのだ。[奉仕する代わりに]金を払っているがよい、やがては鉄鎖につながれることになるだろう。...真に自由な国では、市民はすべてをみずからの手で行い、金銭で代用させはしない。〉

 公共にかかわることはすべて他人まかせで、みずからの金儲けにしか関心がない。まるでいまのこの国を見通していたかのような表現である。そしてこう書き継いでいる。

〈わたしたちは自由よりも利益を重視する。そして奴隷になることよりも、貧しくなることを恐れているのだ。〉「わたしたちはみずからの自由を売って、奴隷の自由を買っているのである。その方がよいのだと自慢しても空しい。わたしはそこに人間の姿ではなく、卑屈さをみいだすからだ。」

 わたしたちは政治家のカネを問題視し、その腐敗を嘆いてみせる。しかしほんとうは、カネのためにすべてを顧みず、精神を腐敗させているのは国民自身なのだ。

 代議制民主主義とは自由よりも金銭を重んじる奴隷精神に基づく政治制度であり、投票とは、わたしたちが主権を売り渡す行為なのだ。

 そもそも政治的意見の表明の方法はもっと多様だ。選挙だけが政治参加の唯一の方法だというのは、それこそ人民から主権を簒奪するために、代議士たちにそう思い込まされてきたにすぎない。

 たとえば、選挙以外の主権者としての主体的な政治参加といえば、デモを考えることも可能だ。

 ここ数年でも、世界的にみれば、エジプト、チュニジア、リビア、タイ、グルジア、ウクライナなどで政権の交代を促し、トルコ、ブラジルなどでも政権に大きな打撃を与えている。欧米での大規模デモは日常的過ぎてあらためて大きなニュースにもならない。ちょっとデモが起きると「お上にさからうとはけしからん」とよってたかって潰しにかかる日本のほうがむしろ特異な存在に見えてくる。

 わたしたちはデモもできれば、占拠もできる。香港の学生のように街を占拠し、台湾の学生のように国会を占拠するのも、民主主義の発現のひとつの形態だ。

 投票だけが政治参加だとうそぶくやつらに乗っかってはいけない。代議制だけが民主主義だというやつらにたぶらかされてはいけない。わたしたちには主権をとり戻すためのあらゆる方法が許されている。

 投票用紙を破り捨てろ。国会の議席を占めることができなくとも、それ以外の空間を占めることはできる。選挙で敗北しても、選挙以外の方法で勝利することはあり得る。

 最後にもう一度ルソーの言葉を引いておこう。

〈精神的な事柄において何が可能で、何が不可能であるかを決める境界は、わたしたちが思うほどに狭いものではない。この限界を狭くしているのは、わたしたちの弱さであり、悪徳であり、偏見である。下劣な人間は、偉大な人間が存在することを決して信じようとしない。卑屈な奴隷は、自由という語を耳にすると、嘲笑するような笑みを浮かべるものだ。〉
(エンジョウトオル)