『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版)

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 先日、本サイトで報じた「東山紀之が反ヘイト本を出版していた」という記事は大きな反響を呼んだ。少年隊の東山紀之が4年前に出版していた自伝的エッセイ『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版)で、自らの出自や在日コリアン一家との交流を告白し、差別され、虐げられているマイノリティへの思いを綴っていたことを知った読者から、「なんてまっとうな主張だ」「東山さんのことを見直しました」といった称賛の声が集まっているのだ。

 しかし、その一方で、本サイトに対しては「東の個人的体験を政治利用している」「東山の話は反ヘイトとなんの関係ない」「東の美しい思い出をクソ記事でけがすな」「安倍首相の非難の為に東山氏の人生や人生観を利用するな」「この記事じたいが安倍さんへのヘイトだ」という批判が数多く寄せられた。

 たしかに、本サイトは先の記事で『カワサキ・キッド』のことを「反ヘイト本」と表現した。「中国人はゴキブリ」「韓国人はダニ」というヘイトスピーチをがなりたてる神社宮司の本を「日本人の誇り」と絶賛する安倍首相に「東山の本を読め!」と説教もした。

 だが、それのどこが政治利用だというのだろう。そもそも「反差別」は政治などではない。人を人種や国籍、性、宗教などで差別しない、というのは国際社会が一致して掲げている普遍的な原則であり、すべての人間が人間らしく生きる尊厳の基盤なのだ。

 そのことをきちんと理解して反差別を主張している文章に出会ったら、それを社会に活かそうとするのは当然だろう。その本を紹介することで、人間の尊厳を揺るがそうとする愚劣な動きに抗し、最高権力者の差別扇動を押しとどめようとすることが、なぜ政治利用になるのか。

 菅原文太のケースでもそうだったが、要するに、彼らは芸能人が語ったことを「ただの美談」「個人的な体験」に矮小化しておかないと気が済まないだけなのだ。それを社会問題に敷衍し、具体的な政策や政権の問題につなげようとした途端、ヒステリックに「政治利用だ」と排斥しようとする。

 彼らにどんな思惑があるのかは知らないが、しかし、当の東山はけっして、個人的な思い出話としてこうしたエピソードを書いた訳ではないし、具体的な政策批判に踏み込むことだって恐れてはいない。

 それは同書を読めば明らかだ。たとえば、東山は在日問題についても、たんに在日コリアン一家への思いだけでなく、朝鮮学校無償化見直し問題にまで踏み込んでいる。

「(家族ぐるみのつきあいだった)僕より二つ年上のシュウちゃんは地元の公立学校ではなく、朝鮮学校に行っていた。学校は別々だったし、僕は小学二年の終わりに桜本を離れたけれど、中学になるまでときどき遊びに来ていた。中学生になってからは会っていない。
 当時シュウちゃん一家は日本名を名乗っていた。差別のため本名は名乗れない時代だった。
 あれから三十年たち、最近は韓流ブームが起こり、韓国には日本人観光客が何十万人も行く時代になった。一方、高等学校の無償化から朝鮮学校だけが外されたというニュースが入ってきて、いまも変わらない日本の社会の器の小ささも感じる」

 無償化見直しを「日本の社会の器の小ささ」と喝破する東山は、想像以上に冷静で客観的な目をもっている。たとえば、殺人事件についてもこう書いている。

「ある殺人事件の無期囚の加害者が被害者の両親に謝罪の手紙を書いたとあった。家族は悲しみを超えて、加害者に手紙を書いた。そして両者の文通が始まった、という。
 被害者と加害者の交流は異例だ。メディアでは加害者は徹底的に『殺人者』として報道されがちだ。その家族までが『悪人』のように思われることもある。でも、手紙の文面ではとても『悪人』とは思えない。殺人を犯すに至るまでいったい彼に何があったのか。重いテーマだが、被害者と加害者双方の内面はどういうものか、などと考える」

 本書を読んでいると、東山が社会的な問題に常に関心を払い、個人的な体験を社会問題とつなげて考えようとしていることがよくわかる。そして、わかりやすい感情に流されず、周囲の圧力や空気にも屈さず、あくまで自分の頭で考えようとしていることも。

 これに比べると、大勢のヒステリーに付和雷同し、わかりやすい差別感情を煽ることしかしないメディアや安倍首相をはじめとする政治家たちのなんと愚劣なことだろう。

 だからこそ、政治利用批判に臆さず、何度でも言おう。「中国人はゴキブリ」「韓国人はダニ」というヘイト宮司を「日本人の誇り」と絶賛している安倍さん、東山の本を読んでみてほしい。頭のあまりよくないあなたでも、どちらが誇りある日本人か、よくわかるはずだ(今回はちょっと丁寧めにお届けしました)。
(伊勢崎馨)