『地図とスイッチ』朝倉 かすみ 実業之日本社

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 本書を読んで思い出したのは、"失われた世代"を代表するアメリカ人作家のF・スコット・フィッツジェラルドの妻・ゼルダが書いた小説のことだ(唐突だが)。細かい言い回しなどはもはやうろ覚えなのだが、村上春樹氏が彼女の小説について「ゼルダの書く文章はとても美しい。しかし、その絢爛たる描写があまりにも全編に詰め込まれているため、読者は息苦しさを感じずにはいられない。小説というものは、ここぞという決めの文章とごく普通の文章がほどよく混在することで、緩急が生まれるものだ」といった趣旨の見解を述べていたと思う。翻って『地図とスイッチ』であるが、決めの文章(絢爛さというより、味わい深さという意味合いになるけれども)と普通の文章の割合が絶妙。「ハルキが言っていたのはこういうことだったのね!」と実に腑に落ちた次第。

 この小説には主人公がふたりいる。東京都出身の蒲生栄人と北海道出身の仁村拓郎だ。それぞれの名前の由来は、「栄人→9月8日生まれだから、8にちなんでエイト」「拓郎→母親が『結婚しようよ』の曲を気に入ったことから、吉田拓郎にちなんでタクロウ」。というと、時代背景がわかる人にはわかると思うが、ふたりが生まれたのは昭和47年。そして実は栄人だけでなく、拓郎が生まれたのも9月8日。さらには、東京育ちの栄人も母親が里帰り出産をしたので出生地は札幌で、ふたりは同日に同じ病院で生まれたのだった(もうひとつおまけに、彼らの母親たちは小中学校の同級生)。母親たちの昔語りによって、また過去のたった一度の邂逅によって、互いの存在をおぼろげに意識している栄人と拓郎。彼らがそうとは知らずけっこうな近距離に存在しているのは確率的にかなりスペシャルな偶然だと思うが、不思議な説得力を保ったまま物語は進んでいく。「ふたりはもう一度出会うの?出会わないの?」とついつい続きが気になってしまう話運びは、同じ著者が『田村はまだか』(光文社文庫)において「結局田村は来るの?来ないの?」という興味で読者を引きつけた手法を思い出させる。

 草食系男子のはしりのようなふわふわした栄人と、「男はこうあるべき」というやや古めの価値観にとらわれ気味の拓郎。共通点は女子に翻弄されるタイプだということ? いまひとつ腰の据わらない感じで生きてきた栄人は、最終的に相手の狙ったタイミングで重大な決定を迫られるし、「一家の主として」という意識を強く持つ拓郎も、なんだかんだで妻に主導権を握られっぱなし。しっかりと地に足をつけた女たちにくらべ、男たちはなんとナイーブかつロマンティックに描かれていることか。

 各章の最初のページには、栄人と拓郎のターニングポイントとなった事件が起こった年の主なできごとと紅白歌合戦の詳細データが載せられている。おもなできごとの方も卒業アルバムのような趣向で興味深いのだが、紅白歌合戦データのおもしろさときたら! 最も古い情報である昭和47年当時、私は5歳でうっすら記憶が残り始めた頃だ。それ以降の紅白はほぼ鮮明に覚えているので、「そうそう、シャ乱Qがトップバッターの年あった!」とか「そういえば、若貴兄弟が揃って審査員席にいたことあった!」とか、思い出して盛り上がることができた。主人公ふたりよりちょっと年上だが自分もだいたい同じ時代を生きてきたんだなあという感傷めいた気持ちも芽生えるし、現在40代くらいの読者がいちばん楽しめる作品かもしれない。

 ところで、著者はエッセイにおいてはこれでもかという具合に笑える描写を放り込んでくる(特にご両親に関するエピソードは絶品。エッセイ集はいまだ、朝日新聞出版社刊『ぜんぜんたいへんじゃないです。』しか出ていないことが残念でならない)。しかし、笑いを誘うねらいのエッセイにおいてはそれが正解。こういった勘のよさがまた朝倉氏の油断ならないところである(←もちろんほめ言葉)。

(松井ゆかり)