【建物萌の世界】第28回 戦前の競馬場を訪ねる

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今年、2014年はJRA(日本中央競馬会)創立60周年。記念の年として、記念競走を含めて様々なイベントが開催されています。戦前から競馬を開催していた日本競馬会(独占禁止法に抵触するとしてGHQの命により1948年解散)を引き継いだ国営競馬の受け皿として、1954(昭和29)年に公布された日本中央競馬会法に基づいて設立されたのが、日本中央競馬会という訳です。従来の「NCK」に代わり、JRAの略称を対外的に使うようになったのは1987(昭和62)年のこと。

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そこで今回は、昔の競馬を感じさせる場所を訪ねてみようと思います。
日本で初めて、本格的な西洋競馬が継続して開催されたのが、1866(慶応2)年に開設された神奈川県横浜市の根岸競馬場。開設当時は居留地の外国人が運営する競馬場だったのですが、後に日本人による運営に代わり、馬券も発売されるようになります。ちなみに、日本人の所有馬で初めて勝ったのが、西郷隆盛の弟、西郷従道のミカン。騎手も自身が務めた上での勝利でした。
後に横浜競馬場と改称された根岸競馬場は、1942年(昭和17)年の開催を最後に翌年海軍用地となり、スタンド内部には印刷工場が造られました。戦後は進駐軍が接収してスタンドは印刷工場、コース内側にあったゴルフ場はそのままレクリエーションの為のゴルフ場となり(いわば「居抜き」ですね)、後にアメリカ海軍が管理する土地となります。終戦間もなくからの度重なる要請に応え、敷地が返還され始めたのは1964(昭和39)年。1969(昭和44)までに大部分が返還され、現在はJRAが管理する「根岸競馬記念公苑」と横浜市の「根岸森林公園」になっています。そこには、1981(昭和56)年に返還された1930(昭和5)年竣工の一等馬見所(スタンド)が残り、根岸競馬場の向正面部分に当たる根岸競馬記念公苑からは、木立からスタンド上部が顔を覗かせている様子を見られます。

根岸競馬場跡全体図

根岸競馬記念公苑から見た一等馬見所

設計はベーリック・ホール、関東学院など、横浜の建物を多く手がけたジェイ・H・モーガン。施工は大倉土木(現:大成建設)。かつては隣接する二等馬見所や下見所(パドック)なども残っており、一等馬見所と共にYMOの映像作品『PROPAGANDA』(1984年)のロケ地として知られていたのですが、昭和の末に老朽化の為、取り壊されました。

旧根岸競馬場一等馬見所

目玉のように見える塔屋上部にある丸窓の周囲は、遠目からだとボロボロになっているように見えますが、実は植物文様の装飾。

塔屋のアップ

当時の写真や復元模型を見ると、かつてはスタンド上部に屋根があり、その上に貴賓室や決勝審判室などがあったことが判ります。屋根の骨組は戦後も長く残っていましたが、2000年代に老朽化で崩落の危険がある為撤去されました。

復元模型

現在の様子

現在、この一等馬見所は横浜市の所有となっていますが、建物に接した旧4コーナーからホームストレッチにかけての敷地は、現在もアメリカ海軍根岸住宅地区となっており、観客席側の様子はそちらからしか窺うことができません。根岸住宅地区は日米間で返還が合意されているので、将来的には全体をぐるりと見て回ることができるでしょう。
ただ、建物の修復作業は全くと言っていいほど行われておらず、現在は耐震性に問題があるとのことで周囲をフェンスで囲い、立ち入り禁止になっています。根岸住宅地区返還後は、歴史的遺産として保存・活用していくことが考えられますが、修復費用が莫大で、横浜市の予算だけでは負担しきれない……という話もあります。全体をツタが覆い、コンクリートも劣化が進んでいるように見えるので、はたして残していけるのか心配なところ。

ツタがはう観客席

根岸競馬場のスタンドは立ち入り禁止ですが、現在も戦前そのままの姿で活用されている競馬場のスタンドが宮崎にあります。
宮崎神宮のすぐそば、宮崎市花ヶ島町にある旧宮崎競馬場は1907(明治40)年開設。戦時中の1944(昭和19)年に陸軍に接収され、戦後はJRAに返還されたものの競馬は再開されず、地方競馬が施設を借り受けて競馬を開催していました。が、これも1963(昭和38)年、赤字ではなく馬資源の枯渇(出走馬が確保できなくなった)という、今では信じられないような理由で廃止されてしまいます。それ以降は1956(昭和31)年から競馬場施設を利用して始まっていた、抽せん馬(現:JRA育成馬)育成事業の施設として活用されるようになり、現在は宮崎育成牧場と改称されています。また、利用者登録制のWINS宮崎も併設。
ここに残されているのは、1931(昭和6)年に作られた旧一等馬見所(スタンド)。戦後の地方競馬開催時にも使われていたので、きれいに整備された状態です。

旧宮崎競馬場一等馬見所

装飾の少ない、ある意味モダンなデザインですが、事務所の入口とおぼしき部分の庇には若干の装飾的要素があります。観客席にはコース側からの他、裏側から最上段へ通じる階段が左右に。

建物入口

観客席への階段

屋根を支える骨組はリベットで組み上げられており、無骨な表情を見せています。所々にある柵は木製。こまめに手入れしているのか、腐食はほとんど見受けられません。

屋根を支える鉄骨

木製の柵

上部には決勝審判室だったと思われる部屋、観客席の最上段には放送室があります。内部にはかつて使われていた放送機器がそのまま残っていました。

最上部に決勝審判室らしき部屋が

旧放送室

観客席の下にあたる部分は、現在馬場や施設管理に使う資材倉庫となっています。

観客席の真下

この旧一等馬見所を含む地域は一般に開放されており、タイミングが良ければJRA育成馬の調教風景を見ることができます。「馬に親しむ日」や、育成馬を売却するセリであるブリーズアップセール前に行われる「育成馬展示会(旧称:馬の卒業式)」などでは、来場者がここでイベントを楽しむ姿が。ダートコース(中央競馬の規格なので一周1600m)を走る馬を見ていると、競馬場時代の様子が何となく想像できます。

イベントでスタンドに集まる人々

競馬場時代を想像できる

根岸(横浜)競馬場と宮崎競馬場は、戦後一度も中央競馬は開催されていないのですが、1991(平成3)年まで「開催休止中の競馬場」という扱いでした。これは競馬法施行規則で、1場ごとの開催日数の制限があり、この2場分の開催日数を「競馬が開催できない場合は、その開催日数を他の競馬場に振り分けることができる」という規定を使って他場に振り替えることで、全体の開催日数を確保していたから、という事情もあったものです。1991(平成3)年の競馬法改正に伴う規則(農林水産省令)改正で制限が緩和された為、無理に「休止」扱いを続ける必要がなくなり、実情に合わせ競馬場としては正式に廃止されました。
この他、戦前の競馬場スタンド遺構としては、鳴尾競馬場(旧阪神競馬場)の一等馬見所がごく一部、とある女子高の施設として保存されています。貴賓室を中心とした玄関と建屋部分のみで、観客席は残されていません。この建物は戦時中、競馬場が鳴尾飛行場として転用された際、管制塔として使用されたという歴史も。
日本ダービーやジャパンカップをはじめとする大レースが開催される、府中市の東京競馬場。ここには、1933(昭和8)年の開場から1967(昭和42)年まで使用された初代スタンドの面影を残すものがあります。

初代スタンドのデザインを残す馬霊塔

新スタンド(2代目スタンド)完成の1968(昭和43)年、初代スタンドの特徴であった塔屋のデザインを模して作られた馬霊塔です。ここには馬頭観音の他、馬主や調教師らが建立した、斃死した馬の墓碑も並んでいます。最も知られているのが、旧名パーフェクトの通り生涯10戦10勝、1951(昭和26)年の日本ダービーをレコード勝ちした10日後、破傷風により急死したトキノミノルのもの。馬主の永田雅一と親交が深かった作家の吉屋信子が追悼文に書いた「ダービーを勝つために生まれてきた幻の馬」という言葉が有名です。

幻の馬トキノミノル碑

大映の社長であった永田雅一はこの後、トキノミノルをモデルにした映画『幻の馬』(1955年)も製作しています。東京競馬場でカメラを併走させてレース場面を撮るという、JRA全面協力の素晴らしい作品なのですが、映像ソフト化されていない幻の映画となっています。この他八大競走優勝馬では、1935(昭和10)年のダービー馬でレース後の調教中に故障し、予後不良となったガヴアナー、春の天皇賞を制した唯一の牝馬レダ(天皇賞を制した1953年秋、毎日王冠のレース中に故障し、それが元で死亡)の墓碑も。

ダービー馬ガヴアナー碑

天皇賞馬レダ碑

また、有馬記念が行われる千葉県の中山競馬場には、正門の奥に戦前に作られた旧正門が「メモリアルゲート」として保存されており、かつての姿を見ることができます。競馬場に行った際、これら昔の痕跡を探してみるのも一興ですよ。

(文・写真:咲村珠樹)