大前研一●1943年生まれ。神奈川県立翠嵐高校卒。早稲田大学理工学部卒業、東京工業大学大学院で修士号、マサチューセッツ工科大学大学院で博士号を取得。日立製作所を経て、マッキンゼー&カンパニーでは、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任。現在、BBT大学学長。

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40年前、30代のときに書いたベストセラー『企業参謀』は世界のリーダーのバイブルとなった。国をも動かす名参謀の力量とはどんなものか。

■マハティールの参謀として日本を見る

参謀の使われ方もいろいろある。大将が戦略やアイデアを持っていて、それを実現するために力を貸してほしいと要請される場合もあれば、ゼロベースで戦略を立案したりアイデアを考えてほしいということで招聘される場合もある。

私が「参謀役」を引き受けてきたのはもっぱら後者のパターンだ。クライアントの立場、ポジション、考え方、能力、実行力などをトータルに推し量って、「この人は何をやるべきなのか」「この大将ならこんなことをやったら素敵だな」と思うようなアイデアを考えるのだ。

となれば“パートタイム仕事”というわけにはなかなかいかない。だから、私の場合は1人の主に長い期間仕えることが多い。一番長かったのはマレーシアのマハティール・ビン・モハマド元首相で、経済アドバイザーとして18年も付き合った。

1981年にマレーシアの第4代首相に就任したマハティールは「ルック・イースト」という政策を掲げた。旧宗主国のイギリスやアメリカなどの欧米ではなく、ルック・イースト、つまり「日本に学べ」ということだが、奇跡的な戦後復興と高度成長を遂げたというイメージ優先で、実際に日本から何を学ぶのか、具体案があったわけではない。そのお手伝いをすることになったのだ。

私は歴史学者でもないし、社会学者でもないが、マハティールの参謀として日本を見たときに、2つ、3つ際立った特徴があった。

一つは通商産業省(現在の経済産業省)が主導して日本の産業構造の転換をしてきたことだ。通産省は計画経済でもないのに5カ年計画を策定して、次代の重点産業を「白書」にして世に知らしめた。「鉄は国家なり」といって鉄鋼生産を強化し、70年代中頃には鉄鉱石も無煙炭もほとんど出ない日本を世界一の鉄鋼王国に押し上げた。

日本の鉄鋼業が全盛期を迎えた頃には、通産省は「産業のコメは半導体」と言い出した。これをきっかけにして日本企業の半導体投資が加速し、後発だった日本の半導体産業はあっという間に世界一に駆け上がった。

当時の日本は産業の淘汰を市場経済に委ねるのではなく、通産省が旗を振って構造転換を演出していたのである。

もう一つ、マハティールが興味を持ったのは、日本が内閣府のアンケート調査などで国民生活や消費行動の実情を汲み上げて、「3つのC(カラーテレビ、車、クーラー)」を白書などで広く国民に公表していたことだ。マハティールのような強烈なリーダーは、思い付いた政策をトップダウンで実行に移しやすい。私は、そうではなく、定期的に国民の声を聴き、国民が何を望んでいるかを理解して、それを国家戦略に反映していく仕掛けが必要だと説いた。

私がマハティールというリーダーを素晴らしいと思ったのは、「政治家として何がやりたいのか?」と聞くと「こういうことがやりたい」と明快に答えが返ってくることだ。

あるとき、「貧困をなくしたい」と彼は言った。当時のマレーシアにはニッパヤシで作った家に住んでいる人が5割以上いて、そのほとんどがブミプトラ(サンスクリット語で「土地の子」の意)と呼ばれるマレー人だった。そういう人たちをまともな住宅に住めるようにするのがマハティールの政治目標であり、彼が22年務めた首相の座を降りる頃にはニッパヤシの家で暮らす人はいなくなっていた。「日本の自動車産業にきてほしい」と言われたこともある。自動車産業は日本の工業力の象徴だが、モノづくりの強さの秘密は裾野に広がっている産業インフラ、下請けの中小企業群にある。

「自動車会社にきてもらっても、それだけでは日本の強さを輸入したことにはならない」と諭したら、「連れていけ」と言われて、東京・大田区を案内したこともあった。

■これからはマルチメディアの時代になる

今でこそ2000社程度に減ってしまったが、最盛期には大田区に8000社以上の中小企業があって、マハティールといろいろな会社を見て回った。マレーシアの首相がはるばるお見えになったということで、向こうも懇切丁寧に説明してくれる。ときには社長と意気投合してマハティールが大好物の天丼を一緒に食ったりするのだが、買収話を持ち掛けた途端に社長から「帰ってくれ!」と言われたりしたこともある。

マハティールは高度な技術を持った中小企業をマレーシアにも溢れさせたいと考えていた。工業大臣にでもやらせておけばいいのに自分で現地を視察して、「M&Aで買えるところはないか」と物色した。しかし、M&Aという言葉もなかった時代で、突然、「この会社、幾らで売ってくれる?」と言われても中小企業の経営者も戸惑うばかり。「そこまで言うならマレーシアに行ってやるよ」と意気に感じてくれるのがせいぜいだった。

結局、M&Aはできなかったが、日本の企業誘致には成功して、マレーシアの工業化は進んでいく。しかし、私には大きな課題が見えていた。中国である。当時の中国は「眠れる豚」だったが、これが目覚めたら、小国マレーシアの産業経済など吹き飛ばされてしまう。

「中国が目覚めたときに生き残る方法を考えよう」とマハティールに進言した。93年のことである。「どうすればいいか?」というから、「知的付加価値で食う方向を考えるべきだ。これからはマルチメディアの時代になる。知的産業で一歩先を行っていれば、これから急速に労働集約型産業で台頭してくる中国と同じ領域で競わないで済む」と説明した。

するとマハティールはじっと考えてからこう言った。「おまえの言っていることはとても興味がある。だが、一言も理解できない」

マルチメディアがどういうものか、かなり専門的なことになるので担当者を決めてくれれば、その人に全部説明する、と言っても「俺に説明しろ」ときかない。仕方がないから逐一説明すると、「よくわかった。それをマレーシアで進めるためのプランをつくってくれ」。

こうして私が練り上げて、96年から国家プロジェクトとして発動したのが「マルチメディア・スーパーコリドー(MSC)構想」である。コリドーとは「回廊」のこと。最先端のITインフラで都市を整備しつつ、大胆な規制緩和と優遇措置を行って世界中から企業を呼び込み、国内のICT産業を育成、集積することで、ハイテク国家マレーシアをアジアにおけるICTのハブ(拠点)にしようというプロジェクトだ。この構想を実現する場所がサイバージャヤ、同じコリドー内に首都も移転してプトラジャヤとなった。サイバーという言葉がまだあまり馴染みのない時代に新しい「サイバー法」までつくって本格的に展開した。

MSCに関する私のプレゼンテーションをマハティールはすべて自分で聞いて、その実現を阻む法律があるとわかると担当大臣を呼んで「こういうことができるようにしろ」とトップダウンで指示した。MSCの推進力が25年後を視野に入れた「Vision2020」でトップの強力なリーダーシップにあったことは間違いない。そしてトップ一人に参謀の私一人という直の関係はアジア危機のときに副首相のアヌワール氏が逮捕されるまで変わることはなかった。

■相手のために命がけで考える神聖な仕事

リー・クアンユー首相時代のシンガポールでも国家戦略アドバイザーを務めたことがある。当時、リー・クアンユーには、工業の近代化に関してウィンシミウスというオランダの工業大臣の経歴があるコンサルタントがやっていた。そして経済開発庁(EDB)のアドバイスをしていたのが私である。

ASEANをバーチャルな国として見た場合、首都に当たるのはシンガポールだ。それならば製造業がなくても東京が成り立つように、シンガポールもサービス業中心に「ASEANのバーチャルな首都機能」を強化することによって成り立つようにする、というのが私の提言だった。しかし、リー・クアンユーは「やはり製造業が欲しい」とウィンシミウスの提言を実行したがった。

「製造業のない国は成り立たない」と彼は19世紀のイギリスのようなことを言っていたが、ウィンシミウスの工業化プランに基づいて導入された造船の修理、カメラなど多くは失敗に終わっている。人口が多く、賃金の安い隣国にはかなわないからである。私の提言はシンガポールの中でも広く知られていて、時々同国を訪れたときには現地の新聞に「Mr.Service comes back」などの見出しが躍ったものだ。今となってはシンガポールはまさにASEANの首都としての物流や金融のハブとなっている。今のシンガポールには“工業化プラン”は跡形も残っていない。

結局私は、リー・クアンユーの参謀を降りたのだが、このときから、複数の参謀を抱えている主からの依頼は絶対に受けないと決めた。参謀が複数いるとアイデアが天秤にかけられる。「どちらが正しいか、互いに証明せよ」というケースも出てくるのだ。

参謀は寝ても覚めても主をヒーローにするためにどうしたらいいかを考える。思考を煮詰めて煮詰めて、主が思い付かないような課題を見いだして、「こういうことを今からやっておかないといけない」とアイデアを提示するわけだが、参謀がほかにもいれば「そんなことはやらなくても大丈夫」という反対意見も出てきて、トップは迷いが出てくる。議論ばかりで時間の無駄なのだ。

その後、マハティールのアドバイザーをやっていたときに、シンガポールのEDBのニャン・タンダウ長官から「やはり工業化プランは全部潰れた。大前さん、戻ってきてくれ」と再オファーがきたが、丁重にお断りした。お隣同士、首相同士が仲の悪い国の両方でコンサルタントをやるわけにはいかないからだ。

この苦い経験をしてから、コンサルティングでも、複数のコンサルタントを雇っている会社の仕事はしないことにしている。それから、「ウチの会社はこういうことがやりたいので、A社さん、B社さん、C社さん、提案書と見積書を出してください」という入札仕事も絶対にやらない。「大前さんしかいない」と言ってくれなければ、考え始めない。自分の人生の大切な時間を割いて、相手のために命がけで考える神聖な仕事である。量販店の売り物ではない。

ソ連邦崩壊後の新生ロシアがコンサルティングを受け入れたいということで、エリツィン政権からマッキンゼーに話がきたことがある。マッキンゼーで国家レベルのコンサルタントをやっていたのは私だけだったのでお鉢が回ってきたのだが、ハーバード大のジェフリー・サックス(経済学者、現コロンビア大学地球研究所長)らもコンサルティングに入っていると聞いて、すぐさま断った。

ジェフリー・サックス一派のコンサルティングの性質の特徴は、ロシアでも「本場アメリカの市場経済を教えてやる」とばかりに強引に市場経済化を進めた。

結果、ロシア経済はマフィアに牛耳られてマフィア経済的資本主義に歪んでしまう。サックスと一緒にやっていたハーバードの教授の中には民営化する、というインサイダー情報を先に握り国営企業の株をロシア人の従業員から買い取り、民営化後に巨額のあぶく銭を手にした、と報道されている。そんな連中と競わされて仕事をするつもりはなかった。

韓国で李明博大統領が誕生したときも、アドバイザーの要請がきた。当初、財界出身で、わりと筋のいいリーダーが登場したと見ていたので詳しく話を聞いてみると、アドバイザリーボードが9人いて、そこにビル・ゲイツの名前もあった。

ボードメンバーが9人もいたら、2時間の会議で1人10分少々しか持ち時間がないから、まともに議論もできない。つまりは李明博が政権の箔付けに使うためのアドバイザリーボードと気づいて、「そんな暇人じゃない」と辞退申し上げた。このボードがその後、重要な仕事をしたということは寡聞にして聞かない。

(小川 剛=構成 大沢尚芳=撮影 Alamy・AP・ロイター・毎日新聞/AFLO=写真)