『マル合の下僕』高殿 円 新潮社

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 我が子の成長を願う気持ちを表すものとして、「這えば立て、立てば歩めの親心」という言葉がある。昨今であればさしずめ、「義務教育が終われば上の学校に進学せよ、進学すれば無事に就職せよの親心」とでも言おうか。私など、息子たちの大学入学もまだなのに、若者の就職の厳しさを伝えるニュースを見ては胃をキリキリさせる日々だ。別に本人たちが学歴などなくてもバリバリ働いて自活しようという気概があるのであれば、すぐにでも就職してもらってかまわないとかなり本気で思ってはいるのだが...。私自身はバブル期の女子大生にしては苦労した方だと思うが、それでも働く気のある同級生たちで卒業後にもまったく職の当てがないケースなどはほぼなかったと記憶している。すべての求職者が自分の希望通りの職に就くことが可能だとは思っていないけれども、彼らの働く意欲を削ぐばかりの世の中にならなければいいと切に願う。

 主人公・瓶子貴宣は、大学の非常勤講師で一般企業の会社員とは違うが、いわゆるワーキング・プアの生き見本のような存在である。ワープア問題についてはニュースなどを見て多少はわかっているつもりでいたけど、大学講師でもこんなに生活が厳しいの!?貴宣は現在29歳でK大大学院卒(「関西における最難関大学」ということは京大を指しているのであろう)。ほんとうは母校の助手になり、専任講師を経て、さらに上へ...と目論んでいたにもかかわらず、出世ルートから転がり落ちてしまった。彼の現在の勤務先は、関西ではそこそこ名を知られた香櫨園女子大学・環境学部総合文化学科だ。1科目あたり1万2000円で、それを9コマ受け持つ貴宣の月収は10万8000円(ボーナスなし)。次年度はなんとか1コマだけでも増やして生活を少しでも楽にしたいと奮闘する様子は、冗談抜きで涙を誘う。実は、自分ひとり分の生活費を捻出するだけでも苦しい状況の中、彼には養わなければならない甥っ子がいたのだ...。

 本書のもうひとつの軸となるのが、自由奔放な姉・しずるが置いていった彼女の息子・誉との生活ぶりである。誉が初対面の叔父の帰りをアパートの前で待っていたのは小学3年生のとき。それから2年、家事全般をすべて完璧にこなす誉は、学業も常にトップ、スポーツも得意で、先生や友だちからの信頼も厚い。親が夢見る理想の息子像そのものだが、それはだらしない母親によって図らずも形成された美徳であり、叔父への気兼ねから否応なく磨かれた資質だということを、貴宣もわかっている。お互いがお互いを気遣いながら暮らすふたりであるが、遠慮なく文句や不満をぶつけ合う親子とは一線を画しながらも、それでも間違いなく家族だと思う。

 タイトルにもある「マル合」とは「論文指導ができる教員」のことで、大学で確実に出世するためには学科内での声が大きい「スーパーDマル合(D=博士号)」に取り入らなければならない。K大時代にその指導教授&派閥関係を読み違えて出世の道を断たれた貴宣は、その失敗を教訓として香櫨園女子大では今度こそ安定した地位と収入を得ようとする。しかし、さまざまな横槍が入って(強力なライバルが出現したり、ベテラン教授が期待したほどには後押ししてくれなかったり)そう簡単に事は運ばない。四苦八苦しながらビッグチャンスをつかみかけた貴宣だったが、家庭と職場でそれぞれ大ピンチに...!

 著者の高殿氏は以前インタビューで、貴宣についてはっきりと性格が悪いと言い切っておられたが、まあ確かによくはないかも(誉に対する疑似親心は美しいものであるとしても)。しかし、際立った頭のよさで困難を切り抜けていくキャラクターは個人的には大好物(マンガ『DEATH NOTE』のLとか『NARUTO』のシカマルとか)。誉も時折なかなかに毒のある一面を見せたりする強者だし、貴宣の同僚で"男根信仰""風俗美術(=エロ画)"などが研究テーマの薬膳光二専任教授などもどぎついながら鋭い観察眼の持ち主で、頭脳明晰な者同士の会話はおもしろい。高殿氏は、ライトノベルから一般小説まで多岐にわたる趣向の作品を発表されている作家。特に最近は職業小説の良作を書かれているイメージが強い。就活真っ最中で疲労の極みにあったり、これから始まる就活に不安を抱いていたりする若者たちは、どれだけの数いることだろう。現実はそうそう思い通りにならないものだが、少しでも彼らを勇気づけるような小説を今後ともコンスタントに書いていっていただきたい。

(松井ゆかり)