『献灯使』多和田 葉子 講談社

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 その未来では、いろいろなものごとが「逆さ」になっている。

 老人は百歳を越えてさらに元気を増すのに、子どもは虚弱で介助なしには生活ができず死亡率も高い。産業・経済がさかんなのは北海道と沖縄で、東京は物資が乏しく活気がない。人びとがだんだん電化製品を使わなくなったため、開発も生産も停滞している。インターネットはとうに廃止され、それを祝う「御婦裸淫の日」が国民の祝日として制定された。こうした新しい祝日は、上意下達ではなく公募と国民投票によって民主的に決定される。そもそも日本政府そのものが、いまや民営なのだ。警察も民営化され、吹奏楽の演奏を主業務としている(町を練り歩いて子どもたちに大人気だ)。グローバル化なんて発想そのものが廃れ、誰もが当然のように鎖国を受け入れている。あらゆる分野で外来語がなくなり、せいぜい犬の種類や農産物をあらわすのに使われる程度だ。オレンジには定価があるが、切手には定価がない(国会議事堂の図柄はただ同然で入手できる)。学校の厠(トイレという呼称はなくなった)は男女共同で、皆が集って遊びながら用を足す楽しい空間になっている。

 この逆さの未来を描いているのは、短篇集『献灯使(けんとうし)』の冒頭におかれた表題作だ。外形的には未来小説である。いっけんするとアンチ・ユートピアにとれるが、主人公である義郎(曾孫と暮らす老人)に寄り添って読めば、むしろ現在の日本よりもずっと暮らしやすい社会にも思える。しかし、未来にせよアンチ・ユートピアにせよ、作品の手ざわりはいわゆるSFのそれではない。

 まず、この未来がどう成立しているかの説明がほとんどない。物語の端々から、ある時点で大災害/深刻事故が起こったと推測されるが、その異変がどう波及して奇妙な社会・文化をもたらしたかの道筋がわからない。伝統的なSFが物語に要請する「外挿」や「蓋然」が働いていないのだ。ここに描かれている「逆さ」はSF(を含む近代小説)的な設定ではなく、寓話の要素のようである。くっきりと際立っているが、辻褄などは省みられない。義郎の曾孫の名前も寓話的で、「無名(むめい)」という。

 そのいっぽうで「献灯使」は、日常の気配が充満する作品でもある。たとえば冒頭で無名が義郎を待っている場面は、〔絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。瞼をうっすら閉じ、空中を耳で探るように頭を動かして、外の砂利道を踏みしめる足音を鼓膜ですくいとろうとする〕。義郎が貴重品のオレンジを切るくだりは、〔果物の密な繊維に守られた奥深い空間から尊い滴を見つけ出してきて無名に与えるという使命感に義郎は武者震いする〕。無名が〔レモンは目の前が青くなるくらい酸っぱいね〕と言い、その感想を聞いて以来、義郎は〔レモンの黄色を見ると、そこに青色が混ざっているように感じる。すると一瞬、ナマの地球に触れたような気がする〕。

 これら叙述はリアリズムの枠組みすら越え、いま生きている世界をあらゆる感覚で捉えようとする試みだろう。そうして表現された鮮やかな日常の肌理のなか、先に紹介した寓話の要素がなめらかに象眼される。これがこの作品の独自性であり、それが神話の輝きを放つ。そして、義郎や無名の心はひとつの時間に固定されずに、遊動する。

 義郎は学生のころドイツから来た娘を案内した。その追想が流れて、新宿から成田空港まで無人エクスプレスに乗る想像へとつながる。空港はすでに機能していない。どのチェックイン・カウンターも、その頭上に蜘蛛の巣がかかり、それぞれに国旗の柄の蜘蛛が身を潜めている。

 無名は世界地図を見ていて気を失ったことがある。そのときに時間を飛び越え十五歳になった。懐を探ると大型客船の絵が印刷された切符が出てくる。記憶をたぐりよせてみると、自分はこれからインドのマドラスへ密航するらしい。四国に本部を置くある民間プロジェクトが、無名を「献灯使」に選んだのだ。無名が外国へ行く未来は、彼の空想のなかだけではなく、どうやら実際に起こることらしい。無名も義郎も(現時点では)知らないのだが、プロジェクト「献灯使の会」は実在している。あからさまに法に背く組織ではないようだが、会の存在が世間の目にふれることはない。会員がひとところに集まる機会もなく会報もなく、ひそやかに活動がつづいている。これも寓話的だ。

 この短篇集には「献灯使」のほか4篇が収録されている。どれも、先述した大災害/深刻事故が起こった世界を描いているが、それぞれの物語には直接の関連はなく、作品のたたずまいも大きく違う。

「動物たちのバベル」は三幕の戯曲で、人類が絶滅したあと(その絶滅が日本だけか世界に及んでいるかはあきらかではない)、リス・ネコ・イヌ・キツネ・ウサギ・クマがバベルの塔建設を企てる。カレル・チャペックやジョージ・オーウェルに連なる文明風刺のようだが、塔の建築には「翻訳者」が必要だと衆目一致したあと、事態は思いがけない方向へ転がりだす。

「韋駄天どこまでも」は、大地震をきっかけにふたりの女性がエロチックに結ばれるさまを、大胆なタイポグラフィで表している。〔てんちゃんは東田の「東」の字の口の中にまで手を突っ込んで、そこにある美味しそうな横棒をつかんで外へ引き出そうとする〕〔二人は、奪い、奪い合い、字体を変え、画数を変えながら、漢字だけが与えてくれる変な快楽を味わい尽くした〕といった具合。筒井康隆もかくやの実験小説だが、カタチが面白いだけではなく、しっとりとした情緒や官能が通っている。

 伝統的なSFの興味を求める読者は、まず「不死の島」と「彼岸」の2篇から読むとよい。この未来の起源が(いちおう)明かされている。

(牧眞司)