10月特集 東京オリンピック 1964の栄光、2020の展望(17)

 2020年の東京五輪で活躍が期待される若手選手として、フェンシングの宮脇花綸に続き、バドミントン界からは桃田賢斗に注目してみた。

 日本が初優勝を果たした今年5月の国別対抗戦トマス杯で、19歳だった桃田賢斗の活躍は衝撃的だった。

 決勝トーナメント準々決勝のフランス戦以外の5試合に、第2シングルスとして登場。準決勝の中国戦では世界ランキング6位の杜鵬宇を相手に、第1ゲームを23対25で奪われながらも第2ゲームからは攻めの姿勢に転じて逆転勝ち。その勝利で、日本チームの決勝進出も決めた。そして決勝のマレーシア戦では、ランキング27位のチョン・ウェイフェンを39分で退けて優勝への王手をかける活躍。5戦全勝で日本チーム初の世界制覇に貢献したのだ。

「あの中国戦はけっこう運も良かったし、ちょっと神がかったような試合でしたね。大会中は精神的にも充実していて。全勝したということより日本の優勝の方が嬉しかった」

 試合中はコーチのアドバイスも耳に入らないほど夢中だったといい、自分の直感を信じて、自分が感じたままにプレイしていたと振り返った。それが彼の今のプレイスタイルだ。

 そんな桃田がバドミントンを始めたのは小学2年のとき。姉の影響からだった。父親も熱心に応援してくれ、桃田自身も試合のビデオを何度も見ていたという。

「テレビで放送された国際大会の試合を録画したのをけっこう見ていましたね。自分は始めたばかりでシャトルがラケットにまともに当たらないのに、この人たちは何でこんなに的確にこんな速さで打つんだろうと思ってずっと見てました。すごくカッコ良かったから、『ああいう球を打ってみたい』と思うようになって真似をして。それがだんだん自分のものになってくると強い相手にも勝てるようになり、それでもっと強い人に勝ちたいと思い始めて......。そんな感じでした」

 周囲の人からは「あまり練習をしていない」と言われることも多いと言うが、自分は天才型というよりコツコツ練習して自分の技を磨いていくタイプだと笑う。初めて全国大会を制したのは小学6年の時。それをきっかけに中学校は地元の香川県ではなく、福島県の富岡第一中に進むことを決意。

「自分が進学することになっていた中学にはバドミントン部がなかったので、『じゃあ福島へ行こうかな』という感じでした。でも父は、自分には言わなかったけどけっこう悩んだらしくて。母ともけんかをしていたらしいです」

 こう言って苦笑する桃田だが、富岡では指導をしてくれたインドネシア人コーチの影響を大きく受けた。

「自分のイメージでは、強い人はガンガン練習をしてずっとバドミントンのことを考えているのかなと思ったけど、インドネシアのスタイルはそうではなくてオンとオフがハッキリしていました。なので楽しかったし、小学校のときより練習をしたいなという気持ちになりました」と桃田は言う。

「柔らかいショットはインドネシア人特有のものだと思うけど、いろんな発想とか、いろんなショットがあって。コーチの球を受けている時は『こんなショットもあるんだ』と驚くことだらけでした。それを真似するようになって自分のプレイの幅が広がったし、毎日新鮮な気持ちでバドミントンができていました」

 富岡高校との中高一貫スタイルで、毎日高校生と練習ができる環境というのも大きかった。高校生にはなかなか勝てず、その悔しさから、次こそは勝ちたいと思って工夫する。インドネシア人コーチがいたからこそ、その工夫の幅が広がり、今のプレイスタイルができた。そこで一気に成長した桃田は3年生で全国中学校バドミントン大会を制し、全日本総合選手権には男子史上初の中学生選手として予選に出場した。

 だが、そんな順調なバドミントン人生に衝撃を与えたのは、桃田が高校2年に上がる直前の2011年3月11日に起こった東日本大震災だった。桃田は、武者修行で練習に行っていたインドネシアで大震災を知り急遽帰国。しかし、福島県にある富岡高校には原発事故の影響で戻れず、香川県の実家に帰った。

「友達とも連絡が取れなくなったりして、精神的なダメージはけっこう大きかったですね。1週間くらいは何もせず、もう(バドミントンは)できないんじゃないかとまで考えていました。でも高校の先生が色んなところに声をかけてくれて、実業団チームで練習ができるようにしてくれたんです」

 猪苗代高校の空き教室を借りて富岡高校の授業が再開されるようになると高校に戻った。帰って来られない仲間もいたが、バドミントン部は再開した。

「みんな同じ気持ちで帰って来たと思うので、前より絆も深まって充実していました。学校も簡単に再開できたわけではなくいろんな人たちの協力があってのことだから、『感謝の気持ちを持って練習や試合に取り組もう』という気持ちになれた」と桃田は言う。その気持ちを彼は、同年世界ジュニア3位や翌12年の世界ジュニア優勝などの結果で伝えることができた。そしてこれからも、自分の活躍でその気持ちを伝え続けて行きたいという。

 高校卒業後は実業団のNTT東日本に進んだ。

「実業団に入ってシニアの試合へ出てみると、レベルの違いを実感させられました。パワーとスタミナ、スピード、経験値などのすべてが違って本当に別次元な感じで。世界ジュニアの優勝で満足していたところもあったけど、このままじゃいけないなと思って」

 ジュニアの頃はコンディション作りを考えたことがなかったが、シニアでは睡眠時間や食事にも気を使い、ベストな状態に持っていかなければ戦うこともできないと実感した。

 また、NTT東日本でチームメイトになった全日本総合6連覇の田児賢一がストイックに練習に打ち込んでいる姿を間近でみて、「才能の塊のような人だけど、あのプレイを作り上げられたのは練習でフィジカルを鍛えたから。自分はもっともっと練習をしなければいけない」と思えたのも大きい。

「スーパーシリーズ(※)でたまにベスト8やベスト4には入れているけど、まだ手応えはないし特別自分が強くなったというわけでもないと思います。ただ、少しずつ変わってきていると思うのは、意識的に練習しているフィジカル面が徐々に強化されてきて、スーパーシリーズという舞台での戦い方が分かり始めたということですね。今年3月の全英オープンでは世界ランキング1位のリー・チョンウェイ(マレーシア)と戦ったけど、コートが狭く見えて打つコースが無くなるくらいの雰囲気に圧倒されました。彼は何発打ち続けてもショットの精度が変わらないけど、そこまでできるようにするためには体の強さが重要だと思いました」
※世界を転戦する年間バドミントントーナメントシリーズ。オリンピックや世界選手権に次ぐ大会

 シニアになった時からネット前の技術や器用さには自信があった。だが戦いを重ねていくうちに、それだけでは戦えない、テクニックを生かすためにもフィジカルが必要だと考えた。今は世界ランキングを12位(11月6日現在)まであげているが、「意識的にコツコツ練習してきたことが、少しずつ実力になってきているのでは。これからもいきなり強くなることはないので、コツコツ練習していくしかないと思う」と言う。

 だがそんな桃田は2020年東京五輪を、自分のための五輪とも思えると言う。

「自分が世界ジュニアで優勝したのは千葉県で、たまたま日本開催だったんです。だから25歳で迎える五輪が東京になったのは、ちょっと何かあるんじゃないかな、と思って」と笑顔を見せる。

「東京で金メダルを獲るために何をしなければいけないかはまだ分からないけど、まずはリオデジャネイロ五輪に出たいしスーパーシリーズでも1回くらいは優勝したいから、本当にちょっとずつの積み重ねで結果を残していくしかないですね。でも、まだ結果にこだわるようなレベルにはきていないから、今は上を見ずに足元をみて、コツコツと頑張らなければいけないと思います」

 一気に花開いたように見える桃田だが、2年後のリオ五輪、6年後の東京五輪に向けて、今はまだ、着実に一歩ずつ階段を上ろうとしている。

【プロフィール】
桃田賢斗(ももた けんと)
1994年9月1日(20歳)香川県出身。NTT東日本所属。高校3年生で出場した世界ジュニア選手権で優勝。2014年5月に行なわれたトマス杯ではシングルスで5勝をあげ、チームの初優勝に貢献した。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi