10月特集 東京オリンピック 1964の栄光、2020の展望(12)

 地球の裏側、ブエノスアイレスで2020年の五輪開催が東京に決定し、日本中が喜びに沸いてから、すでに1年以上が経った。その東京五輪招致団の一員として活躍し、現在は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事を務める田中理恵さんにインタビューを試みた。

 体操選手としては、日本人女子初のロンジン・エレガンス賞を受賞するなど、長い手足を生かした美しい演技で注目を集めた。五輪招致活動では、昨年6月、スイス・ローザンヌで行なわれたIOC総会で、立派に英語でのスピーチを披露し、9月の開催決定時も現地で喜びを分かち合った。招致活動中の出来事、現在の活動、そして、2020年東京五輪開催への思いを語ってもらった。

――田中さんが記憶に残っているオリンピックは?

「記憶にしっかり残っているのは(2000年)シドニーオリンピックからです。ロシアの(スベトラーナ・)ホルキナ選手(アトランタ、シドニーオリンピック段違い平行金メダリスト)が演技しているのを見て、『きれい、美しい』と。それまで、体操といえば、兄弟(兄・和仁、弟・佑典)だったんですよ。ホルキナさんは長身(164センチ)で、むっちゃカッコよくて、もう、感動しました。自分も身長が伸び始めて、悩んでいたのもありましたし」

――他の競技は見ていましたか?

「大学に入るまで、本当に体操にしか興味なくて、体操だけを見ていました。サングラスを放った高橋尚子さん(女子マラソン・金メダリスト)も、ちょっとニュースで見たくらいで。今は、冬季五輪になりますが、同じ採点競技のフィギュアスケートは気持ちが入っちゃいますね」

――オリンピック出場を意識したのはいつ頃からですか?

「最初に小学校6年の時、(2004年)アテネを意識しましたね。その後、中3でケガをして、一度あきらめかけていたのですが、大学3年の時から、(2012年)ロンドン大会を目指しました。個人としてもそうですが、どうしても3兄弟で出たいと。それが実際、一気に叶ってしまい......ちょっと幸せすぎて怖かったです(笑)」

――オリンピックは選手にとって、やはり特別なものなのでしょうか?

「私は、県大会も日本選手権もオリンピックでも、(演技に臨む)気持ちは一緒でした。ただ、オリンピックの時は、自然と『頑張らなきゃ、失敗したくない』と欲が出てしまった。平常心でなかった。もし、いつものような気持ちだったら、もっといい演技ができたのでは、という思いはあります。でも、あのキラキラとした舞台で、演技ができたことは人生の宝物です。お父さん、お母さん、おばあちゃんも現地に来てくれて、恩返しもできました。あと、3年若かったら、もう1回出たいです(笑)」

――やっぱり最高の舞台だと。

「そうですね。あの会場に入った時の歓声、興奮は忘れられません。そして、国を越えて、応援してくれたことも印象に残っています。床の演技の時も手拍子をくれました」

――その翌年、東京オリンピック招致団の一員となりましたが、どのような経緯で?

「日体大の理事長、学長という経由で依頼が来て......断われないと思いつつも、3回断わりました。スピーチが英語と聞いて(笑)。体操選手として、日の丸を背負うのと、招致委員会で背負うのは、また大きさが全然違うと思いましたし。ただ、一方でロンドン五輪後、燃え尽き症候群になりまして、体操を見るのも嫌だし、体育館に行くのも嫌という状態だった。目標がなくなって、何して生きていこうかと思っていた時の依頼でした。それが5月で、6月にはスイスでの総会で、英語でスピーチをしなければならないというスケジュールで。ホント、猛練習でした。そこで、繰り返しやっていた時、ふと体操に似ているな、と思ったんです。英語でしゃべっているのに、日本語としても自然と理解ができている。ああ、私、久しぶりに頑張っている、努力しているな、と。そこで、スイッチが入りました。気が付けば、手ぶりつきで、英語でスピーチしていました」

――そして、本番もうまく行ったと

「思えば、体操も審判に自分の表現をアピールしますよね。緊張感も嫌いじゃないし。そこは体操での経験が生きたかな、と。実際はスポットライトがまぶしくて、何も見えなかったのがよかったのかも(笑)。そして何より、(プレゼンテーション・トレーナーの)マーティン・ニューマンさんのおかげですね」

――9月のブエノスアイレスでは?

「私は記者会見では、英語でしゃべったんですけど。メインは最終プレゼン。みんなが必死にリハーサルをくり返しているのを見ていましたし、本番は泣きながら見てましたね。本当に練習どおりで、完璧でした。そして、(IOC)ロゲ会長が紙をひっくり返して『TOKYO』と見えた時、オリンピックで団体金メダルを獲ったときのようでした。まあ、金メダルを獲ったことはないんですけど(笑)。もう、誰とハグしたか覚えていません。歴史の1ページに自分がかかわれたというのも、最高にうれしかったです」

――あれから、1年が経ちました。いま、東京五輪をどのように考えていますか?

「向こうではみんなから、『おめでとう、おめでとう』と言われていたので、帰国しても同じかな、と思っていたら、『ありがとう』と言われるんです。『2回目をありがとう』とか、『あと6年、7年生きる力をもらった』という高齢の方もいらして。自分たち、いい仕事に携われたなと感謝しました。自分自身、25歳でロンドンオリンピックに出場し、スポーツの枠を越えたものを感じました。だから、選手にも同じような体験をしてもらいたいな、と思いますし、それを最高のコンディションで迎えられるようにしたいですね。だから、アスリートに近い立場として、どんどん選手の声を拾って伝えなければ、と思っています。

 あとはたくさんのイベントを通して、スポーツの楽しさ、素晴らしさを子供からおじいちゃん、おばあちゃんにも伝えていきたいな、と」

――田中さんはいろいろな国にも行かれています。日本の方のスポーツへの関心、取り組みについて、どう思われますか。

「1つになって熱くもなれるけど、冷めるのも早い気がしますね。だから、私は2020年で終わりではなく、むしろそこからスタートする、そんなオリンピックにしたいです。子どもたちが間近で選手を見る、『こういう選手になりたいな』『あの競技、始めたいな』と思ってほしい。最近の子供たち、ゲームばっかりじゃないですか。オリンピックをきっかけに、親子で走ったり、逆上がりの練習をしたり......体を動かす楽しさを知ってもらいたいです」

――今は組織委員会理事として、どんな活動をされていますか。

「会議に参加したり、JOC主催の体操教室で、幼稚園などを回っています。子供と同じ気持ちで向かっていきますよ(笑)。もちろん、私を体操選手として知らない子もいるわけですけど、『この先生と体操したら、楽しい』と思ってもらいたい。ちょっと回るコツを教えてあげて、子供たちがそれをできたときの顔、むっちゃかわいいんですよ。できたときの喜びを教えてあげたいな、と。体操教室は本当に楽しいですね。"体操競技"を教えるとなると、ちょっと怖い顔をしていると思います」

――最後に、2020年に向け、体操競技の未来は明かるいですか?

「男子は、どんどん下からも育っています。みんなが内村選手を目指していますから、美しい体操が浸透していくと思います。女子の強化も着々と進んでいます。ただ、女子は今の選手が東京へ、とは言えないんです。体型がどんどん変わっていきますから、1年1年が勝負なんですよ。ただ、今はちょっとずつ競技生活が長くなっています。『理恵さん、25歳まで頑張りましたよね』と、後に続く選手が増えているのはうれしいですね」

【プロフィール】
たなか・りえ
1987年、和歌山県生まれ。両親、兄と弟も体操選手という体操一家。2010年世界選手権で、団体5位入賞に貢献。個人総合でも決勝進出を果たし、日本人女子初の「ロンジン・エレガンス賞」を受賞。2012年、ロンドンオリンピック出場。2013年12月、現役引退を発表。現在は、日本体育大学児童スポーツ教育学部助教。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事

スポルティーバ編集部●文 text by Sportiva