今年10月7日、国際パラリンピック委員会(IPC)が、2020年東京パラリンピックでバドミントンを初めて採用することを決めた。長年にわたってバドミントンがパラリンピック実施種目となる事を願ってきた日本の選手や関係者にとっては、競技活動の大きなモチベーションになる決定だ。

 現在のところ、世界選手権とアジアパラ競技大会(※)がパラバドミントンの2大大会とされており、選手たちは、これらの大会の金メダル獲得を目指し活動している。世界の勢力図としては、バドミントンが盛んに行なわれているアジア勢がけん引。日本にとって東京パラリンピックの成功に弾みをつける意味でも重要な位置付けとなった今大会、男女あわせて20人の選手を送り込んだ。
※世界選手権は2年に一度開催され、アジアパラ競技大会は2010年の広州に続いて今回の仁川が2度目の開催。

 そのなかのひとり、上肢機能障害の立位クラスの豊田まみ子(筑紫女学園大)には特に注目したい。豊田は福岡県出身、大学4年生の22歳。生まれつき左ひじから先がない。実は彼女、昨年11月にドイツで開催された世界選手権で、初出場ながらシングルスで優勝した世界チャンピオンなのである。とはいえ豊田は、「今回のアジアパラは、相当厳しい戦いになる」と覚悟していた。

 なぜなら、実力者が揃うとされる中国が先の世界選手権には出場しておらず、対戦相手としてのデータがほとんどない状況だったからだ。まだ見ぬその不気味な存在は気になるところだが、「粘りのプレーでラリーを続け、メダル獲得を狙いたい」と気合いを入れた。

 予選のグループリーグでは、いきなり中国選手と当たりストレート負け。

「緊張してしまった。自分がミスをして負けてしまった」と唇を噛んだ。その反省から、「挑戦者の気持ちで臨んだ」という2戦目では、タイの選手を破って1勝1敗とし、決勝トーナメント進出を決めた。

 そして21日の準々決勝で、やはり初対決の中国のCheng Hefangと対戦。第1セットを18対21で落とした豊田は、第2セットでは落ち着きを取り戻し中盤までリードする。だが、豊田のレシーブがネットにかかり、12対12となったあたりから形勢が逆転。前後左右に多彩なショットでゆさぶられると、豊田にミスが出始め、最後までペースを取り戻すことができず、ストレート負け。

「競った時に負けないという強い気持ちが大事なのに、最後は点差が開いて弱気になってしまった。本当に悔しいです」と、メンタルの崩れを反省する豊田。この結果にはとうてい納得いかないが、「今の世界のレベル、自分の今の実力を知ることができた。これをバネにして鍛え直します」と話し、この貴重な経験を今後の糧とすることを誓った。

 そんな豊田がバドミントンを始めたのは、小学4年の時。バドミントン経験者の母親が地元で立ちあげたジュニアチームに参加をした。中学校でもバドミントン部に所属したが、2年生までの成績は地区大会止まり。中学卒業後はラケットを置くつもりだった。だが、3年生で初めて県大会に出場すると、気持ちが変わった。「やっとの思いで出場したつもりだけど、もっと強い人がこんなにたくさんいるんだ」。1回戦で負けた悔しさが刺激となり、競技の続行を決めた。

 強くなりたいと、高校はあえて九州の中でも名門と言われる強豪校に入学。レギュラーにはなれなかったが、バドミントンに没頭する濃密な3年間を過ごした。現在は大学で福祉などを学び、地元の社会人クラブに所属しながら、一般の大会にも障がい者の大会にも出場している。

 実は、前述した昨年の世界選手権のわずか1カ月前にはスランプに陥っていた。日本選手権でのことだ。格下の選手にも負けて、最下位と惨敗している。この時も、「もうラケットを握りたくない」と思うほどショックを受けた。そこから復活できたのは、一緒に練習している仲間たちの存在だった。

「この悔しさをバネにして頑張るしかない。勝って恩返しがしたい」と、より一層、勝利にこだわるようになった。

 来春の大学卒業後は、内定をもらったスポーツ用品の大手メーカーに就職する予定だ。6年後の東京パラリンピック出場が今の最大の目標。「しっかりと練習する環境を作っていきたいと思っています。頑張ります。次はかならず(勝つ)」

 今日の敗戦は、6年後に向けたスタートでもある。豊田は再び立ち上がり、シャトルを追う。

荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu