根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第17回

証言者・石山建一(3)

 1995年、プリンスホテルの監督を辞して退社した石山建一は、巨人の編成本部長補佐兼二軍統括ディレクターに就任した。当時の長嶋茂雄監督から直々に誘われての転身だったが、同時にダイエー(現・ソフトバンク)球団専務の根本陸夫からも「巨人と話がうまくいかなかったら、ダイエーに来て手伝ってほしい」と誘いを受けていた。
 根本がそこまで石山を頼りにした理由は、プリンスホテルが、西武ライオンズと同じグループの社会人チームだったことがひとつ。ライオンズのチーム編成を司る球団管理部長として、有望選手の獲得を頼みやすいという側面があった。
 もうひとつの理由は、メジャーリーグ志向に始まり、選手の育成法、指導法にいたるまで、石山と通じ合うところが多かったこと。特に、「プロ野球選手である前に一般常識人であれ」という根本のモットーは、アマチュア野球一筋だった石山の考え方に合致した。
 どちらかといえば、根本が石山の考え方に賛同し、感心するケースが多かった。プロの世界で指導者経験も豊富な根本だが、「アマよりもプロのほうが上」という意識はなかったようだ。それでも、アマの石山がプロの巨人に入ったときには、根本のやり方を見て「大事だと思っていたこと」が生きたという。石山がその当時を振り返る。

■オレは六大学出身でよかった

「根本さんがよく言っていたのは、『この選手は誰の教え子だ?』っていうことです。つまり、選手とその指導者、もしくは先輩との関係をすごく大事にする。獲りにいく選手の指導者は誰で、誰の後輩か、ということを把握しているんです。私も『誰の教え子だ』というのはわかっていたほうですが、巨人に行って、あらためて、根本さんのやり方がいかに大事か、教えられました」

 互いに影響を受けていた両者だが、西武ライオンズが誕生する以前に直接の接点はない。初めて出会ったのは、1979年1月1日の朝、場所は神奈川の鎌倉霊園だった。

 毎年の元日、西武の幹部社員がこの霊園に集まり、創業者・堤康次郎の墓に参る。天候に恵まれれば6時半頃に初日の出を拝み、その後、西武グループ総帥の堤義明が年頭の訓示を垂れる。社員として、元日の鎌倉霊園に呼ばれるのは、ひとつのステイタスだったという。

 石山は早稲田大の監督時代からこの墓参に呼ばれていて、その年、西武の一員となって初めて参列した根本と会ったのだ。

「あの時は、あいさつして『頑張ってください』って言う程度でしたけど、私がプリンスにいて、かつて早稲田の監督をやっていたことを根本さんは知っていました。もちろん私の方は、根本さんのことはよく存じ上げてましたよ。なんといっても、私が選手だった時の早稲田の監督・石井藤吉郎さんは、根本さんと同じ茨城県の出身です。だから、石井さんと根本さんはすごく仲がよかった。同じ六大学で試合もしてますからね」

 戦後間もない頃の東京六大学リーグ、ある日の早稲田大×法政大戦での出来事。神宮球場のマウンドには法大の左腕エース、関根潤三が立っていた。早大の強打者、石井藤吉郎が打席に入ると、背後に座る捕手の根本がマスク越しにささやいた。

「石井さん、真っすぐ来るよ」

 郷里が同じ茨城ということで、根本は石井に打たせたい一心で球種を教えた。しかし、石井にはその想いは届かない。

「うるさい! 根本、黙れ!」

 そう返した石井の頭には、裏をかいてカーブが来るんじゃないか? という疑念があった。ところが、本当にドーンと真っすぐが来て三振。根本が言った。

「真っすぐと教えてやったのに、なんで打てないの?」

 その言葉でなおさら頭が混乱......といった類いの思い出話を、石山は石井から直に聞いていた。ゆえに、法大出身の根本も石山にとっては六大学の先輩であり、それにちなんだ話を本人から直に聞く機会もあった。

「根本さんは『オレは六大学出身でよかった』と言っていました。なぜなら、スカウトに行くときも、どこへ行っても必ず先輩がいると。たとえば、四国に行って、行く先々で『実は選手を獲りに来たんだ』と言えば、法政ではなくて慶應、立教のOBが、その選手が希望する進路や家庭の内情まで教えてくれたそうです。六大学を出れば、みんな同じ土俵で勉強してきたんだからと、誰もが迎え入れてくれる。だから六大学を出てよかった、という話を聞いたことがあります」

 それが、旅先ではなく神宮球場でリーグ戦を視察となると、今度は六大学の大先輩たちの相手をすることになる。石山から見れば「まだ上には上がいて」という状況。西武球団の管理部長も「おい、根本!」と呼び捨てにされるし、呼ばれればすぐに飛んでいって、先輩たちにお茶汲みをしないといけなかったという。

 いくら日本の野球界が"タテ社会"といっても、根本が簡単に頭を下げる姿は石山にも想像できなかった。しかし根本にすれば、六大学の人脈を保って広げるために欠かせないあいさつであり、喜んで頭を下げていたのではなかろうか。

■選手の家族の就職先まで世話することもあった

 そして、石山によれば、根本が持つ六大学の人脈と、「誰の教え子だ」という関係性で獲得した選手の最たる例は、大久保博元(西武・84年ドラフト1位)だという。

「大久保は水戸商の出身ですから、根本さんと仲のいい石井藤吉郎さんにとって高校の後輩に当たります。出身地も石井さんと同じ茨城の大洗町なんですが、この大洗は、根本さんの郷里である東海村の隣町。しかも、担当スカウトの浦田直治さんは、社会人の大昭和製紙時代に石井さんの子分だった。地域も含めた先輩と後輩、指導者と教え子の関係を根本さんが大事にしていたという、まさにその表れじゃないかと思います」

 強打の捕手としてプロ注目の大久保を獲得するために、六大学、社会人、高校と3つの球界の人脈に加え、茨城という土地のつながりまでがフル活用されていた。

 もっとも、当時の西武では伊東勤が正捕手として君臨。ドラフト1位入団の大久保も捕手としての起用は滅多になく、代打が大半だった。まして、当時の森祇晶監督は巨人V9時代を築いた正捕手だっただけに、守備面で緻密さを欠く大久保はファーム暮らしが中心になっていく。87年に一軍で50試合以上に出場した後は出番が激減し、プロ7年目の91年には5試合にとどまった。

 すると翌92年、大久保はシーズン途中の5月、中尾孝義との交換トレードで巨人に移籍。新天地では攻守にわたって活躍するわけだが、石山は、このトレードにも根本らしさが表れているという。

「野球を見ている人ならわかることですが、あのまま西武にいたら、大久保博元という選手は死んでいましたよ。だから根本さんが自ら動いて巨人にトレードさせたんですけど、これは大久保本人のためでもあると同時に、入団の背景と大きく関係しています。というのも、大久保は、水戸商の先輩である石井藤吉郎さんの立ち会いのもと、大洗で契約しています。そのようにして獲った選手を、根本さんは絶対に雑にしないわけです。獲った以上は、そのあともしっかりと面倒を見る。これは口では簡単に言えるけれど、実際にはなかなかできないことなんですよ」
 根本の面倒見のよさは、獲った選手自身にとどまらなかった。必要とあらば、選手の親族の就職先まで、世話することもあった。

 ふつう、球団のなかで根本のようなポストに就くと、自分の地位で汲々(きゅうきゅう)としているから、他人の世話どころではなくなる。巨人で編成の仕事にたずさわった石山自身、選手を獲ることで精一杯になり、選手の親族の就職先まで面倒を見る余裕などなかった。

 それゆえ巨人での石山は、根本が存在した頃の西武との違いを感じるときが多かった。特に当時のスカウトに関しては、雲泥の差があったという。

つづく

(=敬称略)

高橋安幸●text by Takahashi Yasuyuki