長田渚左×木村元彦・対談「チャスラフスカとオシム」(前編)

 東京五輪から50年。大会に出場した選手たちはそれぞれ、激動の半世紀を生きることになった。女子体操で個人総合をはじめ3個の金メダルを獲得、「東京五輪の名花」と称えられたベラ・チャスラフスカ(旧チェコスロバキア)。サッカーのユーゴスラビア代表として出場し、日本戦で2ゴールをあげたイビツァ・オシム。東欧出身の2人はその後も、不思議な縁で日本との関わりが続く。『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』を上梓した長田渚左氏と、『オシムの言葉』の著者・木村元彦氏が語り合った。

――オシムさんとチャスラフスカさん。競技は違いますが、似ているところはありますか?

木村 やはり共通しているのは、50年前に日本に来て、オリンピックを体験して親日家になったという点です。オシムは日本人のホスピタリティに感銘を受けて、それが後々、ジェフの監督になるというところにつながっていくわけです。組織的なホスピタリティのみならず、日本人ひとりひとりがすごくもてなしてくれたという印象を語っている。自転車を無料レンタルさせてくれて、英語もよくわからない大男に、たまたま通りすがりの農家のおばさんが「これ、食べなさい」と大きな梨をくれた、と。初めてカラーテレビを見たのも東京だったと言っていましたね。ベラはある意味、もっとすごかったんですよね。

長田 段違い平行棒で大失敗をした翌日、家宝の日本刀を届けてくれた青年がいたんですけど、仙人みたいだと思ったと言ってました。当時は、長くて重い物で、なんだかよくわからないけど、気持ちをもらった、と。日本人が一生懸命オリンピックをやろうとしていた現象の一例だったと思うんですよね。その後何十年かして、それが本当に大事な日本刀だということが彼女にも分かった。日本人も外国の方も、世界中が何かを心に刻むことができた、いいオリンピックだったという気がします。

木村 そしてもうひとつ、その後の東欧情勢が関わってくるのですが、2人とも政治の荒波にもまれながらも、がんとして自らの信じるものを譲らず、圧力に対して屈しなかったというとこですね。

長田 そこはすごく似ています。

木村 ベラは68年にチェコスロバキアで起きた民主化の動き、いわゆる「プラハの春」に対してソ連が侵攻してきたことに、ノーと言い続けた。オシムのユーゴ、特にボスニア共和国の場合はもっと後になりますが、1991年後半くらいから始まった、セルビア人、クロアチア人、ムスリムといった民族主義による国家分断に対して、どこにも属そうとしなかった。最後まで意思を通して、ついには代表監督を辞任しました。2人とも、一歩間違うと命が危なかった。

 チェコスロバキアのフサーク政権時代(1969〜1989年)というのは暗殺もあって、実際、ベラも弟さんが事故死をとげているわけですよね。

長田 たった1人の弟が死んでしまうということもありました。交通事故でしたが、交通事故がなんとなく蔓延してた時代。実際はよくわからないんです。調べる側も本当に何が起きたのか調べない。推察でしかないけど、秘密警察のような話も出てくる。極めて気持ちの悪い時代でした。

――チャスラフスカさん自身にはどんな困難が降りかかったのでしょう。

長田 彼女は「プラハの春」で民主化への流れを後押しした「二千語宣言」に署名をし、その後、政府に撤回を迫られても自分の意志を貫きました。ものすごい迫害を受けて、命が危ない、友達もみんな離れていく、という経験をしています。それも半年や1年ではなくて約20年。隣人が向こうから歩いてきて彼女に気づくと、すぐ道を曲がってしまう、とか。それは娘さんも覚えていました。人が避けていくということが近所でも頻繁に起きる。非常に孤立します。

 そして仕事を与えられない。表舞台の仕事はもちろん、ベラ・チャスラフスカという名前は世界的に有名なので、その人がこんなことしかさせてもらえないと、諸外国から思われると国としてもまずいので、一切の仕事が与えられませんでした。だから名前を変えて変装して、掃除婦をしていた時代もあります。2つの五輪(東京とメキシコ)で7つの金メダルを獲りながら、あっという間に違う人生になってしまうんです。その一方で、撤回をすれば良い生活ができるとか、国を代表するコーチになれるとか、甘いエサを目の前に出されても、意志を変えませんでした。

――オシムさんはどんな不自由を味わったのでしょう。

木村 92年から、(セルビア人勢力による)サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都)包囲戦というのが始まります。その時彼は国外のベオグラード(現在のセルビアの首都)にいたわけですけど、奥さんと娘さんが2年半、サラエボに残された。特別な計らいで出国することもできたのですが、奥さんはそれを潔しとせず、自分だけ脱出するのを拒んで残ったわけです。その間いつも生命の危機にさらされていた。水もガスも出ない。水を5キロ離れたところに取りにいくためにスナイパー通りというところを通るのですが、そこで撃たれて殺された人を見てきた。一度オシムさんの家に招かれた時に見せてもらったんですけど、床にものすごく大きな補修をした跡があるんです。ものすごい数の銃弾が撃ち込まれてるんですよ。「これ、うちのトロフィーです」と言って見せてもらったクッキー缶には本当に撃ち込まれた弾丸が何十発と入っていた。奥さんと娘さんが生き残ったのは奇跡だと言えるほどです。

 東側のソ連・東欧圏と西側諸国による東西対立の時代が続いたわけですが、ユーゴに関して言うと、チトー(大統領)の非同盟中立政策によって、どちらの陣営にも属さず、それでいて経済的にも立派に発展していた。むしろチェコでベラが苦労した68年頃というのは、ユーゴスラビアにとって自由を謳歌していた時代だし、80年代の初頭くらいまでは、ユーゴは東欧諸国では夢の国と言われていたんです。ところがチトーの死(80年)が1つの契機となって、もともと多民族国家であったユーゴで、それぞれの民族が権益を主張し出す。これが最終的には内戦までいってしまった。ほんの数年の間で、それまで仲良かった隣人同士がただ民族が違うというだけで殺し合いをさせられてしまうようになった。

――そういう状況下で、代表監督であったオシムさんはどういう行動をとられたのですか。

木村 オシムが何に苦しんでいたかというと、まさに全民族を束ねていたユーゴ代表監督でありながら、選手の出身によって、それぞれの政治家、ナショナリストたちからいろいろな圧力がかかってきた。ユーゴ代表でプレイすること自体が、民族の裏切り者みたいに言われて、つばを吐きかけられたり、脅迫の電話をもらった選手がいるんです。「監督、やっぱりもうプレイできません、自分はこの民族を選ばないと、家族がどういう目にあわされるか」という選手が当然、出てきます。オシムは毅然として自分はユーゴ人だという信念を持ち続けるわけですけど、辞めていった選手を一切批判しないんですよね。自分はそんなことを言えるほどの偉い人間ではない、と。これは強烈なアイロニーで、偉い人間というのはつまり、民族主義者たちのことを揶揄して言ってるわけです。

 皮肉なことに90年代というのはユーゴスラビアのサッカーが最強だった時代。これはオシムも言っていますが、当時ユーゴリーグというのは最強のヨーロッパリーグだったんです。87年にクロアチア系選手で構成されたユース代表がワールドユースで世界を制し、91年にはセルビアの雄レッドスターがトヨタカップを制しています。家族がそのような状況におかれる中で、オシム率いるユーゴ代表はヨーロッパ選手権の予選を勝ち抜き、スウェーデンで開催されるユーロ92に行く予定だったのですが、「サラエボで起こっていることをみなさんご存知だろう。もう代表監督はできない」という涙の記者会見を行ないます。

長田 チャスラフスカも他人のことはとやかく言わないし、他人の評価はしない。「あの人は変心したけれど自分は変えない、だから自分は素晴らしいんだ」とか、自分は偉いとか立派だという言い方は一切しない。そうではなくて、それぞれの事情があるんだ、と。「日本人は『なぜ意志を変えなかったのか』と盛んに聞きにくるけど、変えた人のほうに理由があるんじゃないか」と言うのです。非常に知的な人だと思います。そういう言い方を私はできるかなと考えると、「ここまで耐えたのだから、私は偉いでしょ」という言い方をついしてしまうんじゃないか。そこは尊敬できるし、彼女のようでありたいなと思います。オシムさんも似たようなところがあって、ちょっと捻ったユーモアのある言い方をするところがあるけど、本心のところは変えない。お腹の中に漬物石が入ってるような人ですよね。

木村 オシムは2011年、ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会の正常化委員会委員長に就任して、3つの民族を1つにまとめあげたのですが、誇らしげに語ることはなかったですね。「なぜその仕事を引き受けようと思ったのか」と聞くと、「こんな寓話があるよ」と言うんです。橋から落ちて溺れている子を見て飛び込んで助けた男がいた。新聞記者がたくさん来た。「英雄になって、これから何がしたいですか」と聞かれたら、「俺を橋から突き落としたやつを探したい」と。つまり、俺は橋から突き落とされただけなんだというわけです。

 こういう言い回しというのは、東欧の、ドイツとロシアにはさまれた小国の知性ですね。照れなのか、美徳なのか分らないけれども、アイロニカルなことを言って笑いに転化させて昇華させていく。研究者などに聞いても、東欧は過酷な歴史を抱えているので、根底にユーモアがないとやっていけないのでしょう。もっと言うと、オシムの言葉はもちろん含蓄が深いのですが、それがなぜ人の心を打つのかというと、その言葉を実際に体現して生き抜いてきたところにあると思います。
(続く)

【プロフィール】

長田渚左
ノンフィクション作家。桐朋学園大学演劇専攻科卒。著書に『復活の力 絶望を栄光にかえたアスリート』『北島康介プロジェクト2008』『こんな凄い奴がいた』など。NPO法人「スポーツネットワークジャパン」理事長。スポーツ総合誌『スポーツゴジラ』編集長。日本スポーツ学会代表理事。淑徳大学客員教授。

木村元彦
ノンフィクション・ライター、ビデオジャーナリスト。中央大学文学部卒。著書に『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』『オシムの言葉 』(ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞)『蹴る群れ』『社長・溝畑宏の天国と地獄』『争うは本意ならねど』など。