毎年のようにノーベル文学賞候補となる村上春樹だが、その作品性に疑問の声も?(画像は『女のいない男たち』文藝春秋)

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 今年もこの季節がやってきた。ノーベル文学賞がいよいよ今晩発表される。ノーベル文学賞をめぐっては、村上春樹が受賞なるか、というのが風物詩となっている。ブックメーカーの倍率などをもとに、有力候補のひとりと毎年のように報道される。しかし、本当に村上春樹はノーベル文学賞にふさわしい作家なのだろうか。そんな疑問を抱かずにはいられない事件があった。

 今年4月に出版された春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された「ドライブ・マイ・カー」。この短編小説は『文藝春秋』2013年12月号が初出だったのだが、ある騒動が起きたのをご記憶だろうか。

〈(みさきは)小さく短く息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう〉

 という小説内の記述について中頓別町の町議が疑問を呈し、それを受け春樹側は単行本収録時に別の名前に変更することを表明。実際、単行本で問題の町名は「中頓別町」から架空の「十二滝町」に変更された。

 北海道中頓別町ではたばこのポイ捨てが「普通のこと」と表現したのは事実に反するとして、中頓別町議らが文芸春秋に質問状を送付。町議は「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」と話していた。

 この騒動にフィクションのなかの話なのに過剰反応では?という感想を抱いた読者も少なくなかったのではないだろうか。実際、この騒動が報道された後、中頓別町には抗議が殺到、町議のブログは炎上した。

 たとえば、夏目漱石は『坊ちゃん』で松山をぼろくそにけなしているし、志賀直哉の『城崎にて』は城崎で動物虐待が日常的に行われているように描かれているではないか、というような論もあった。

 しかし、文芸評論家の斎藤美奈子は、こうした作品と今回の中頓別町問題とは根本的にちがうと指摘。この騒動と村上春樹という作家の特質について興味深い論考を「早稲田文学」2014年秋号に寄せている。

 まず斎藤は、町が圧力をかけたわけでもなく、中頓別町の人口はわずか1900人で、春樹には町民の何百倍もの読者がいるという力関係を考えれば、「町名を出されたくらいでつべこべ言うな」などと抗議の声を封じ込めるべきではないとする一方、春樹氏側も地名を変更せず別の対応でもよかったのではないか、とも主張している。

 しかし、春樹氏側は「『しまった』『痛いところをつかれた』と感じたからこそ、彼は町名の変更を選んだのではないか。」と推察する。

 一体どういうことなのだろうか。「ドライブ・マイ・カー」の物語を見てみよう。

 物語の主人公である50代後半の俳優・家福。その専属運転手として雇われる渡利みさきという女性が、中頓別町出身という設定だった。

 先の煙草のポイ捨ての記述以外にも、宮崎町議が疑問を呈している中頓別町に関する記述がある。運転が非常に上手いみさきは「運転はどこで身につけたのか」と家福に問われ、こんなふうに答えている。

〈北海道の山の中で育ちました。十代の初めから車を運転しています。車がなければ生活できないようなところです。一年の半分近く道路は凍結しています。運転の腕はいやでも良くなります〉

 この記述についても宮崎町議は「車がなくても生活できますし、私は自分の運転が上手いと思ったことは一度もありません。半年近くも道路が凍結するところが日本にあるのか疑問です」と異議をとなえている。

 この異議について斎藤は「このへんはまあ、揚げ足取りに近いかもしれない」が「無視もできない」として、なぜ中頓別町の人たちがこれらの表現を「屈辱的」と感じたか、という点を考察していく。

 では、中頓別町出身という設定のみさきはどのように描かれているか。

 妻を寝取られた主人公の卑俗な感情を受け止める存在として、みさきは「〈北海道のどのへんにあるのか、家福には検討もつかない〉遠い北国の出身」というのが重要な要素であり、「彼が住む世界とは思いっきり遠い世界の住人、極端にいえば異星人」でなければならなかった。

「みさきが放つワイルドな雰囲気は『異世界の人』『異能の人』のイメージに合致するし、『北海道の山の中』『十代の初めから車を運転』『車がなければ生活できない』『一年の半分近く道路は凍結』などの表現もワイルドな北の大地を特徴づける」

 問題の煙草のくだりについても、「たぶん中頓別町(のようなルールに縛られないワイルドな北の大地)ではみんなが普通にやっていることなのだろう」という意味ではなかったか、と。

 つまり「ドライブ・マイ・カー」のなかで、みさきは「未知なる国から来た野性の娘」、中頓別町は「未知なる野性の国」、という虚構として描かれているのだ。
 
 この描かれ方について、中頓別町の住民が"中頓別はそんなに野蛮な町ではないぞ""こいつ、全然わかってないな"と感じたとしても、そう不思議はないだろう。

 春樹のこうした表現は地名に限ったことではない。『ダンス・ダンス・ダンス』に登場する「文化的雪かき」という有名な表現を斎藤は挙げる。

〈それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった(略)誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。誰かがやらなくてはならないのだ〉

 物語の語り手はこの仕事を「文化的雪かき」と呼んでいる。斎藤はこの記述について「この人は飲食店の取材も雪かきもしたことがないんだな、と。両方の経験がたんまりある私からすれば、店舗紹介の記事も雪かきも傍目で考えるほど単純な作業ではない」「ここの部分は雪かきにも雑誌ライターにも、そして「ごみ集め」に対しても、じつは失礼な(もっといえば差別的な)書き方なのだ」と指摘する。

 中頓別町の町議らが不快感を感じたのもまた、中頓別町に対する一種のオリエンタリズムとでもいうべき「南洋幻想ならぬ北国幻想」「幻想と差別と思い込みが一体化した視線」なのではないか。そして、「中頓別は思いつきで選ばれた代替可能なアクセサリー程度の地名だった」のではないか。夏目漱石の『坊ちゃん』や志賀直哉の『城崎にて』もたしかに松山や城崎をマイナスに書いてる部分もあるが、それでも「これらは少なくともその町を舞台にし、地名を飾りとして利用した今回のケースとは事情が異なる」。春樹自身もそれを自覚しているからこそ、単行本では地名を変更するという対応をとったのだろう。

 そもそも村上春樹の小説は、日本を舞台にしていながらどこか外国の小説のような雰囲気がそれまでの日本の小説とは一線を画し、人気を獲得した。その土地固有の土着的なものは意図して排されている。『羊をめぐる冒険』の札幌、『海辺のカフカ』の高松、『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』の名古屋......特定の地名が使われる場合も、方言をはじめとする土着性は消され、異世界への扉として描かれているケースが多い。土着性の脱臭。だからこそ、春樹作品は日本だけでなく世界でもポピュラリティを獲得した。

 しかし世界的に人気があるからといって、村上春樹がノーベル文学賞を受賞するに値する作家といえるのだろうか。トルコのオルハン・パムク、中国の獏言、ペルーのバルガス・リョサ、ドイツのヘルタ・ミュラー、そして日本の大江健三郎......作品外でも積極的に政治的発言をしている作家が多く並ぶ。作品じたいも既存の社会制度に対して異議を申し立てるような作品が多く、とくにその国のその土地固有の土着性に立脚しながら文学に昇華した作品が多い(あるいはル・クレジオ、クッツェーのような高度な言語実験的な作品)。

 その意味で、この"中頓別町問題"に象徴される、春樹の地名感覚はむしろノーベル文学賞の傾向とは真逆の方向性のようにも思えるのだ。

 もっとも多くの先進諸国では、かつての近代国家成立期の国民文学的な機能とは別のフェイズの文学作品が多く生まれていることもまた事実ではあるだろう。春樹が受賞すれば、ノーベル文学賞も新しいフェイズに入ったということになるのかもしれないが......。はたして、結果はどうなるだろうか。
(酒井まど)