江戸時代の援助交際!? 女装してお客を取る美少年「陰間」の存在があった

みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。前回までは遊女のお話をしてきましたが、今回はその男性版(?)こと陰間(かげま)についてお話しましょうか。陰間とは何かをざっくり説明すると、女装してお客を取る、歌舞伎役者志望の美少年のこと。しかし、彼らのお客には男性だけでなく、女性もいたのです。

「後家(※未亡人の意)を抱き 坊主をおぶる かげま茶屋」

という川柳が当時、有名でした。「後家」というのは未亡人のことです。江戸時代は明治時代以降にくらべると、女性も比較的自由に恋愛生活を楽しめたので、ダンナさんが死んでしまった後、一人寂しく暮らす必要もなかったのですね。歌舞伎でも見にいって、まだ有名になる前の、アイドルやら俳優の卵の誰かに特に目に留めて、応援をはじめる。応援の一貫として、お酒を飲み、ご飯を食べて、奥の間に用意してあるお布団の中にも一緒に入ってしまう……みたいな感じ。ほんとの意味で「会いに行けるアイドル」だったわけですよ。

「坊主をおぶる」という表現は、ご年配のお坊さんに指名されたら、布団までおぶって連れて行かされたというか、介護まがいなことまでせねばならない姿を想像してもらえたらいいですね(笑)。宗派にもよりますが、当時の僧侶には妻帯が厳禁されている場合がありました。女犯の罪というやつです。その一方で、女装している美少年と親密な関係になったところで、とくにケガレになるとは考えられなかったのです。

陰間は12〜14歳程度がもっとも華々しい時期とされ、20歳くらいで引退でした。吉原の遊女たちが27〜28歳までは働いたことを考えると、ずいぶんと早い引退のように思えますが、そもそも彼らは家族の作った借金のカタで陰間をしているんじゃないんですね。

陰間とは基本的に、アルバイトでした。彼らが集う陰間茶屋は、歌舞伎関係者が経営していることが多かったのです。ですから必然的に陰間たちの大半が、俳優として明日のスターになることを夢見る若者たちだったのですね。

ちなみに当時の年齢感覚で20歳といえば、現在の三十路前半くらい。そう、そのくらいになってもまだ役者として芽が出ず、マダムやら物好きのお嬢さんから「援助交際」されているのなら……芸能人としてのお先はまっくらですわな。だから、引退ということになるわけです。

江戸時代、美少年と美少女の名産地は上方(関西)に限る……ということに何故かなっていて、役者の卵としてスカウトされてくるメンツも関西人が多かったのです。ですから、おとなしく国元に帰るか、あるいは江戸で新しい仕事でも見つけるしかないのでした。男性に人気なのは、とにかく若い陰間。一方、女性から人気だったのは20歳前の陰間だったそうな。

さて、気になる陰間のお花代ですが、これがかなり高級でした。江戸市中には幕府公認の遊郭街・吉原があり、ここが名実ともに最高の花街だったんですね。当然、そこの遊女のお花代も高かったのですが、陰間と遊ぶためにかかるお花代は、吉原の中級程度の遊女とほぼ同額でした。

つまり、金持ちで物好きな人たちが、特別な魅力を女装男子・陰間にもとめ、彼らを指名したということですね。だから、陰間の上客は僧侶とか、大奥をはじめとする武家に使える高級女中とか、そういうリッチな層が多かったのです。

明日のスター俳優を目指す若者たち全員が、陰間のアルバイトをしたというわけではありません。陰間をする以外にも、地方巡業に出る仕事(「飛び子」という)も選べましたから。つまり、陰間とは無理強いされた結果ではなく、自分で選んだアルバイトだったのです。

田舎には行きたくない、都会で手っ取り早く稼ぎたいという少年もいたでしょうが……身体は男性でも、心は女性という方が現代でもいらっしゃいますよね。女形という職業は、江戸時代、そういった人々の人生の受け口になっていたのではないかな、と私には思われてなりません。女形としてスターになれればいいのですが、その夢を叶えられる少年たちは少なかったでしょうね。陰間であることをただのバイトとして考えられる「割り切り組」ならともかく、陰間となることしか本当の自分にはなれない少年たちもいたはずで、そう考えるとなんだか切なくなってしまいますね。

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著者:堀江宏樹
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