テレビドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』オフィシャルサイトより

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「わたしたちは、しるべのない深い森にふたりで足を踏み入れました」──いま、世間に賛否両論を巻き起こしている不倫ドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』(フジテレビ系)が、ついに今日25日に最終回を迎える。放送前は「上戸彩に不倫妻は似合わない」「どうせたんなるドロドロ系」と評判は芳しくなかったが、先週の放送では最高となる視聴率16.7%を記録。今期いちばんの話題作となった。

 高視聴率の理由には、セックスレスの妻・上戸が恋に落ちる、堅物の高校教師を演じる斎藤工のいかにも不器用で木訥とした雰囲気や、冒頭に紹介したような上戸のモノローグのロマンチックさも挙げられるが、既婚女性たちが大いに共感したのは、男遊びを繰り返すことで高圧的な夫から自分を守ってきた裕福な主婦を演じる吉瀬美智子の本音すぎる台詞にもあるだろう。

「結婚は平穏と引き換えに情熱を失うものだから」
「恋愛すれば、夫のパンツだって気前よく洗えるわ」
「どうして穏やかに笑っていられたかわかる? 不倫してたからよ」

 ──結婚生活は平穏だけど、退屈。同じような理由で夫も不倫に走ることも多いと思うが、社会現象となった『金曜日の妻たちへ』(1983年放送、TBS系)をはじめ、不倫をテーマにしたドラマで世間の注目を集めるのは、妻の"不貞"の物語ばかりだ。どれだけ時代を経ても、どんなに女性の肉食化がトピックになっても、妻の貞操がいかに重要視されているかということがよくわかる話でもある。

 しかし、こうした"不平等"に対して、「夫と同じように妻も不倫のパートナーをもったっていいじゃないか」と叫び、実践した人たちがいる。しかも、いまから40年も前に、だ。

 そのきっかけは、アメリカの社会学者オニール夫妻が提唱した"オープン・マリッジ"にある。1973年にふたりが書き上げた『オープン・マリッジ 新しい結婚生活』(河出書房新社、日本では75年に出版)は、アメリカで2年間に渡って連続ベストセラーとなるほど社会に大きなインパクトを与えた。まずは、その内容を紹介しよう。

 オニール夫妻が訴えたのは、当時(そしていまも続く)結婚のかたちは「閉鎖型」であるということだ。閉鎖型結婚というものは「自分では少しも気づかぬうちに、こっそりとすきをねらって、自分の自由と主体性を締め出しはじめ、やがて自分を結婚の奴隷にしてしまうのである」というのである。

 その具体例は多岐に及ぶ。一例が、妻が家事を担当するという役割の分担。これはいまも批判されていることだが、親類との付き合いも「結婚は夫と妻の間で行われるものだけでなく、全体の人間関係や義理のしがらみとの結びつきである」とオニール夫妻は言及。さらに、友人との付き合いを優先させることで夫婦間に生じる小さな不満も、「結婚した配偶者は相手だけに属し、他のだれにも属さない」という"非現実的な理想の上にできあがった所有観"だと本書は指摘する。

 たとえば、職場の同僚と一杯ひっかけて帰宅すると、家で待っていた相手が"なんとなく"むくれているというのは、夫婦なら夫でも妻でもよくあること。そういうとき、食事を終えて少し仕事がしたくても口に出せず、"なんとなく"ふたりでテレビでも観たほうがよさそうな雰囲気だなあ......と判断することも、既婚者には日常のなかで多いのではないだろうか。こうした"なんとなく"の正体もまた、閉鎖型結婚特有の「心理的契約という全く風変わりなおきて」だという。それは、「「いつも一緒」というのは結婚で最も重要なこと」であり、「自分の個人的欲求をいつでも喜んで犠牲に供せねばならない」からだ。

 夫婦を束縛する、結婚の「目に見えない契約」。──最初は愛情で克服できると思っていても、次第にフラストレーションは溜まるもの。これは『昼顔』でもさんざん描かれていることだ。子どももいないのに妻である上戸をママと呼ぶ夫にはいびつな所有欲が見え隠れするし、吉瀬が演じる妻はそれこそ閉鎖型結婚のストレスが爆発して、出会い系を通した節操のない不倫に走っていたともいえる。

 そうした不幸な結婚を否定し、オニール夫妻は「開放型結婚」、すなわちオープン・マリッジを推奨するのだが、そこには前述した"浮気の公認"も含まれる。というのも、束縛し合う排他的な閉鎖型結婚では依存と不安が生まれ、嫉妬や疑惑をもたらしてしまう。それでは主体的で開放的な夫婦関係は築けないからだ。夫婦で関係性を閉じず、「互いに配偶者には見出せないものをもっている興味ある人びと」と関わることで、「二人は互いに相手の中にいつでも新鮮なものを発見することができるだろう」という。そして、オニール夫妻はこのように高らかに宣言したのだ。

「配偶者以外の異性に関心をもつたびに疑われるような、狭い意味で貞操というものを解釈すべきではない。開放型の結婚では、配偶者のほかに別の異性とだって愛情を分かち合い、楽しむことができる。そのような関係が逆に夫婦関係を豊かなものにするのである」(同書より)

 これはいわば、「きょうはマリコさんという人とセックスしたら、これがじつに興味深かったんだよ」「そういえば、わたしもこのあいだシュン君という男の子と出会って、とても勉強になったわ」という会話が夫婦間で日常的に繰り広げられる......ということだ。いま、「そんなの上手くいくわけないじゃないか」とツッコミを入れた人は数多いと思うが、なんとこれを40年前に多くの人びとが実践したのである。

 で、気になるのはその結果である。もちろん、オープン・マリッジがアメリカで市民権を得ることがなかったから日本に根付くこともなく、いまも昼顔妻のようなものが話題になっているわけだが、失敗の要因は意外なものだった。オープン・マリッジがうまくいかなかったのは、夫婦で"浮気数の競争"になったからなのだ。

 社会学者ランドル・コリンズの『脱常識の社会学』(岩波現代文庫)によると、一般的とされる夫婦の場合、その収入差が関係に力を及ぼすように、オープン・マリッジを行った夫婦の場合は「他に何人の性的パートナーをもっているか」に依存するという。すなわち、「どちらが性的により好ましいかという競争」になってしまうのだ。こうした競争になったとき、いまも昔も社会では女のほうが勝つ。結果、男性は「分が悪く」なり、相手のほうが「得をしている」と思うようになる。「最初にオープン・マリッジをいいだすのはどちからといえば男性であるのに、それを終わらせたいと思うのも男性の方なのである」というから、皮肉な話である。

 こうして失敗に終わったオープン・マリッジだが、ここであぶり出される問題は、「浮気公認などありえない」というものではない。先程、浮気数の競争ならば女のほうが勝つと書いたが、これは女には"性の二重基準"が課せられた社会だから起こることである。性の二重基準とは、女は妻か娼婦かという2つの役割に分けるという、家父長制が編み出した男性にとって都合のいい、男性有利社会を支える考え方だ。たとえば、『昼顔』のなかで上戸彩が不倫によって過剰に罪悪感に苛まれるのは、夫以上に貞操観念に縛られた"家庭の妻"という役割を担っているからだし、吉瀬美智子が何人もの男性と簡単にセックスできるのは、たんに美人だからなだけでなく、男性にとって"家庭外の娼婦"的役割だからだ。

「性の自由」を謳いながらも失敗したオープン・マリッジが突きつけるもの。そして、現在の『昼顔』のブームが裏付けるもの。それは、この陳腐すぎる性のダブルスタンダードがまかり通ってしまう男社会の矛盾と、そのしぶとさだ。ぜひ『昼顔』の最終回には、性の二重基準を乗り越える上戸と吉瀬の自由な姿を見てみたいものだが......果たしてどうなるのだろうか。
(田岡 尼)