日本のファンから最も愛された外国人レスラーといえば、スタン・ハンセンで異論なかろう(と、思う)。その人気の理由は、何といってもウエスタン・ラリアットだ。

 今ではこの技を使うレスラーが増え、試合で乱発されることも珍しくないが、元祖であるハンセンはそんなエピゴーネン(劣化模倣者)たちとはモノが違う。
 まさに、一撃必殺--。
 ハンセン自身がラリアットを大切に使ってきたというのもあるが、実際にも全体重を乗せてカチ上げるその姿は迫力満点。説得力十分であった。

 ラリアットの原型となったのは、アメリカンフットボールでの自分の腕を相手の首や腕に引っ掛けて倒す反則技“クローズライン”。これをアメフト出身のハンセンがプロレス技として改良し取り入れたものである。
 「このことからもハンセンの本質は、コスチュームから連想されるカウボーイではなく、アメフトにあったといえるでしょう。いわば張り手を改良して空手チョップを生み出した相撲レスラーの進化系である力道山と同様で、ハンセンはそのアメフト版というわけです」(プロレスライター)

 新日参戦当初に顕著だった荒々しく全力で駆け抜けるかのようなファイトスタイルは、確かにアメフトを連想させるものがある。
 「そのときのハンセンのすごさは、今の大技連発のハイスパートレスリングとは違い、エルボーなどのいわゆるつなぎ技だけで試合を組み立てていたところ。その一つひとつに全力を注ぐから、技自体が単調でも全く見飽きることがありませんでした」(同・ライター)

 相手の顔やら腹やらところ構わず力任せに踏みつけるストンピングなどは、その最たるものだろう。後になって「実は極度の近視で、相手の状態がわからなかったために攻め続けていた」とハンセン自身は告白しているが、当時、世間から「プロレスなんて八百長だ」との誹りを受けていたプロレスファンたちは、そんなハンセンの闘いぶりを見て「これのどこがインチキなんだ!」と溜飲を下げることにもなった。
 まさに“ブレーキの壊れたダンプカー”との呼び名にふさわしい暴走ファイト。その究極として今も語り草とされるのが、1981年9月23日、アンドレ・ザ・ジャイアントとの“伝説の田園コロシアム決戦”だ。

 この試合、ハンセンはラリアットでアンドレを場外に叩き落としたのみならず、ボディースラムと一本背負いで2度も投げ切っている。
 「メーンでもないのに両者リングアウトの後の再試合という長期戦をアンドレが受け入れること自体、当時としてはあり得ない。しかも最後はアンドレがハンセンを真似て腕にサポーターを装着しレフェリーにラリアットをかましたことでの反則負け。この結末はアンドレ自身の提案だったと試合を裁いたミスター高橋が書いていますが、天下の大スターであるアンドレがそこまでやったということに驚かされます」(同)

 世界を股にかける大巨人が勝ちを譲るばかりか、一方的にハンセンを持ち上げるかのようなブックを受け入れた。これがその実力を見込んだものなのか、当時の日本での人気を慮ったものなのかはわからないが、いずれにせよ当時のハンセンが日本マット界で頂点を極めていたことには違いあるまい。そんなハンセンが(表向き)突如、全日へ移籍してジャイアント馬場との一騎打ちが決まったとき、多くのファンは「馬場が殺される」と本気で思ったものだった。
 それが意外にも(?)好勝負となったことは「全盛期の馬場がよみがえった」との高評価を受けた一方で「あれ? 何かおかしいぞ?」と、一部ファンに“プロレスの裏”を感じさせることにもなった。

 そうして全日でどんどん“プロレススキル”を上げていったハンセンは、天龍源一郎らと死闘を繰り広げ、ベテランの域に入ったザ・ファンクスとも好勝負を展開し、また盟友ブルーザー・ブロディとのタッグでは補佐役に回ることもしばしば。その後、四天王や殺人魚雷コンビらを相手にした際には、先輩として壁役を買って出たりもした。
 新日時代のハンセンの荒ぶる姿に心奪われたファンは、そうしたハンセンの成長を見ることで、同時に“プロレスの奥深さ”を学ぶことにもなったのだった。

〈スタン・ハンセン〉
 1949年、米テキサス州出身。大学卒業後NFL選手、中学教員を経て、テリー・ファンクのスカウトでプロレス入り。初来日は'75年、全日プロ。'77年より新日プロに参戦後は、外国人の大エースとして活躍する。2000年に引退。