『郵便局と蛇: A・E・コッパード短篇集 (ちくま文庫)』A.E. コッパード 筑摩書房

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 コッパードは不思議だ。

 作品に登場するものごとが不思議なのではない。彼の小説には怪異や神秘も登場するが、それ自体はフィクションの要素であり読者にとってはむしろ馴染み深い。コッパードの不思議さは、そこにではなく、いっけんあたりまえに思えるものごとのほうにある。なんでもなさそうなことが物語のなかで奇妙な色を帯びるのだが、どんな案配でそうなるかがわからない。読んでいて最初に行きあたったときは不思議に感じないが、先へ進むにつれて「あればなんだったのだろう?」と気がかりになっていく。違和感というよりも、空気全体が滲むような気持ち。

 この短篇集の表題作「郵便局と蛇」の場合、山の沼に封じられた「蛇」(この世を喰いつくす存在)よりも、麓にある鄙びた「郵便局」のほうが不思議だ。小説の焦点はあくまで蛇の怪異にあり、郵便局は行きがかりの場所にすぎない。もうちょっと詳しくいえば、郵便局は語り手が「蛇」の伝説を聞く場所で、物語の起承転結では起承を担っている。また、叙述の運動(地理的移動)においては、平穏な下界と蛇が棲む山との中間点だ。つまり小説の形式として考えれば、郵便局はひとつの機能として置かれている。しかし、実際に読んでみると、機能に収まらないものがこぼれだす。まず、〔たしかに郵便局には違いなかったが、威厳というものをまったくと言っていいほど欠いたところだった〕〔じっさい郵便局というよりは台所だった〕という描写。そして、しゃがれた声で郵便配達夫の悪口を言う女局長の態度。彼女に蛇のことを訊ねると、「そんなものが生きていようと死んでいようと、あたしの知ったこっちゃないんですから」と素っ気ない。それでいて、語り手が山へ登ろうとすると、諫めるような口ぶりであれこれ言う。

 超自然的な蛇(もとは凶暴な王子だったと伝えられる)の噂は民間伝承ふうなのだが、郵便局と女局長の様子はそれとしっくりなじまない。背後にひとまわり大きな不吉が隠されているようにも思えるし、ただの寂れた施設とちょっと変なオバサンのようにも思える。その片づかない印象は、低い残響のようにこの物語から離れない。目端の利いた評論家なら郵便局に象徴的な意味をくっつけられそうだが、ハッキリ解くとせっかくの雰囲気が消えてしまう。

「辛子の野原」は超自然な要素は皆無だが、不思議さは「郵便局と蛇」以上だ。三人の中年女(ダイナ、ローズ、エミー)が薪を拾いに黒森へやってくる場面から幕が開くが、物語の主幹はうちふたり(ダイナ、ローズ)のやりとりで構成される。ダイナはしきりに亭主と三人の子どもの愚痴を言い、ローズは「でも家族がいるのは幸せだ」と宥める。ありふれた日常会話だが、ちょっとした拍子でダイナが若いころにしでかした浮気の話になる。それは深刻なものではなかったが、その浮気相手はなんとローズとも関わりをもっていたのだ。過去の三角関係が発覚しても、いまさら嫉妬も悲嘆もない。ふたりはむしろ懐かしい追想としてその男の所業(悪党ならではの奇想天外なエピソードがある)を、あれこれ語りあう。

 謎なのは、森に一緒にやってきたもうひとりの女エミーだ。愚図なエミーはふたりの足取りについていけず、いったんははぐれてしまう。ダイナとローズが座って昔の男のことを話していると、エミーがようやく追いついて「さっき一シリング拾った。みんなでビールをやろうよ」と言う。それに促されてふたりが腰をあげると、もうエミーは先の小径に入ってしまったらしく、姿が見えなくなっている。この作品にはわざわざ三人の女を登場するのに、エミーだけ異常に存在感が薄く、現れかたも去りかたも唐突だ。

 コッパードは目立つ描きかたをしていないが、じつは黒森も、その先に広がる辛子の野原も寂寞としている。そんな雰囲気のなかで、むしろダイナとローズばかりが妙に日常的なのだ。しかし結末に至って、このふたりも翳りゆく世界に包みこまれてしまう。ここに描かれた淒然たる光景は、幻想文学のうちでも屈指だろう(この作品が幻想文学と呼べるとしたらだが)。もしかして世界はすでに滅びてしまい、残っているのはふたりの女だけではないか。そんな気持ちになる。

 この短篇集は十篇を収録。とびきり不思議なのはここで紹介した「郵便局と蛇」「辛子の野原」だが、ほかにも電信柱と柳の木の悲しい恋を描いた「若く美しい柳」、残酷コントの調子がある「アラベスク----鼠」、狂気の音楽小説「王女と太鼓」、いずことも知れぬ街道を旅する者たちを通じて罪・恋・無垢が問われる寓話「シオンへの行進」など、コッパードにしか書けない風変わりな作品が揃っている。

(牧眞司)