1988年7月、札幌円山球場ではプロ野球史に残る衝突事故が起こった。

元プロ野球選手で巨人のスター選手だった吉村禎章氏とこの年から1軍に上がった無名の栄村忠広氏。両者は8回の守備で外野フライ捕球の際に激突、この回から守備固めとして入った栄村氏が捕球体勢に入った吉村氏の左膝に突っ込む格好となった。

スポーツドキュメンタリー「石橋貴明のスポーツ伝説・・・光と影」(TBS/17日)では「2人の男の人生を変えたプロ野球史上最大の事故」と題し、当事者である両氏や関係者の談話を交え、当時の様子を振り返った他、栄村氏は明確に伝え切れなかった吉村氏へ謝罪の気持ちを手紙に綴った。

後に「交通事故級」と呼ばれた衝撃により吉村氏の左膝じん帯は4本のうち3本が完全に断裂。「彼が順調に伸びていたら巨人軍史とか日本の野球界にちゃんと名前を残す素晴らしい選手になったと思う」。王貞治氏がこう語るほどの逸材はこの時まだ25歳だった。

番組のカメラに対し、事故の瞬間を語った吉村氏は「(足を)動かそうとかってことはできなかった。痺れた状態で(医師から)“野球生命をかけるっていう気持ちでこれから治療して下さい”って言われた。私はその時点で真っ暗になった」と絶望感を明かす。

栄村氏もまた「(事故の瞬間は)一瞬真っ白な状態。ボールだけを追いかけてましたので、吉村選手の姿も見ることなく追突した。後からビデオを観ると吉村選手が捕球体勢に入ってましたので、あれはプロとして申し訳ないプレー」と振り返り、「(見舞いにいった?)そうなんですけど、ベッドに横になっててすごいケガをさせてしまったなということで何て声をかけたのか記憶にないんです。正直言って。本当に短い時間だったように記憶しています。それも悔やまれてならない」と続けた。

事故から2日後、見舞いに訪れたはずの病室で吉村氏の苦しそうな姿を目の当たりにするや言葉を失い、ちゃんとした謝罪ができなかったこともまた自分自身を苦しめ続ける一因になったという栄村氏。その後も、球界のスター選手にケガをさせた彼に待っていたのはファンから執拗な嫌がらせや罵声を浴び続ける日々だった。

その一方、吉村氏も先の見えない苦しいリハビリに心が折れていた。それでも病院で出会った障害児達に励まされたことから一念発起すると、足首を固定する器具をつけて走ることができるようにまで回復、翌年9月には代打で復帰を果たすに至った。

その姿を2軍の遠征先で観ていた栄村は、須藤豊2軍監督(当時)の元で泣きじゃくったという。番組カメラにコメントした須藤氏は「泣きじゃくるっていうのはこのことかもわからないですね。長い道のりだったですから。栄村の精神的な辛さっていうのは計り知れないものがあったでしょうね。吉村もしかり」と二人を思いやったが、それでも尚、巨人にいられなくなった栄村氏はオリックスへ志願の移籍を果たすも、その後1年で戦力外となった。

すると引退後の就職先でも「営業に行って“あの吉村をケガさせた栄村です”って言えば誰だってわかるでしょ?」などと心ない言葉をかけられたという栄村氏はアルバイト生活で食い繋ぐようになり、収入はピーク時の10分の1になったばかりか、結婚を機に再就職をするも自分を知られることを恐れて満員電車に乗ることができなかったり、長男が学校でいじめを受けないかと不安に苛まれたりと罪悪感を抱き続ける人生となった。

もちろん、吉村氏の苦悩も同じだ。ケガの前は7年で打率.321、100本の本塁打を打っていた天才バッターは、ケガから復帰後10年間で打率.265、本塁打49本にまで落ち込み、その影響は確実に残った。

「どれだけ素晴らしい記録を残したか。それを思うと本当に口では言い表せない。それにつきます」と語った栄村氏。番組では吉村氏に宛て「人間的にもすばらしい人で、なおかつ野球人としても最高の選手に大ケガをさせてしまった事に大変申し訳なく思っています」など綴った手紙を渡した。

これに目を通した吉村氏は「栄村さんの気持ちも今まで以上に分かったと思います。ケガあって成長したと私自身も思ってます。もう私のことというよりも栄村さんも一切そういう(罪悪感といった)気持ちを持たれないで、とにかく頑張って頂きたい思います。今までこんなに気を遣って頂いて本当にありがとうございました」とメッセージを返した。