階級変更にともない、吉田沙保里が55キロ級から53キロ級へ、伊調馨が63キロ級から58キロ級へ落として臨んだ2014年レスリング世界選手権(ウズベキスタン・タシケント)。「常勝軍団」日本代表女子チームには、いつもとは違う雰囲気が漂(ただよ)っていた。

 勝負の世界、何が起こるか分からない――。世界選手権・オリンピック合わせて吉田は15回目、伊調は12回目の出場となり、それぞれ慣れた舞台のはずだ。しかし本人はもちろん、監督、コーチなどチーム全体が大きな緊張感に包まれていた。

 彼女たちが所属するALSOKの大橋正教監督は言う。

「それが、初めての階級で戦う、ということです。吉田の優勝も、伊調の優勝も、疑っていません。それでも、何が起こるか分からない......これまで以上にね。リードされることがあるかもしれないし、ピンチになるかもしれない。すべて覚悟しています」

 高校、大学でふたりを育て上げ、現在は日本レスリング協会強化委員長を務める栄和人女子チーム監督も、表情は固かった。どんなときでも笑顔でマスコミの取材に応え、サービスを欠かさない男が、試合前に口をつぐんだ。ダブル優勝は確信しているだろうが、勝負の怖さを知りぬいた闘将だからこそ感じる、未知の世界への不安が伝わってきた。

 伊調は今年1月、ロシアで行なわれたヤリギン国際大会に58キロ級で出場。吉田は今年3月、日本開催のワールドカップ国別対抗戦を53キロ級で戦った。だが、両大会はプラス2キロ計量――、レスリングではオリンピックやアジア大会、世界選手権などの「チャンピオンシップ」以外の大会は、リミットプラス2キロまでOKというルールがある。そのため、彼女たちがリミットで外国人選手との公式戦に挑むのは今回が初めてだ。

 10月に32歳となる吉田。6月に誕生日を迎えて30歳となった伊調。30歳を過ぎてからの階級変更、しかも体重を落としての変更による肉体的負担は計り知れない。アテネ、北京オリンピックのころは練習後もはしゃいでいたが、最近は「疲れた」が口癖となり、回復力は確実に落ちているようだ。

 そんなふたりが階級を下げてから口を揃えて言うのは、「的が小さい」。敵がこれまでより小さいため、タックルに入るポイントが限られるということだ。最軽量48キロ級(当時)でバルセロナオリンピックに出場した大橋監督は、身長が5センチ違えばその差は大きいと指摘する。

「2010年の広州アジア大会、51キロ級から48キロ級に下げて出場した小原日登美はそれで苦しみ、金メダルを逃した。ピッチャーなら、極端に言えば、ストライクゾーンが半分になったような感覚です」

 相手の足首を狙う片足タックルから、バックにまわり、グラウンドで技をしかけるテクニシャンの伊調以上に、フェイントやいなしで相手の頭を下げ、反動で上体が起きたところへノーモーションのスカッドミサイル・タックルをかます吉田にとって、「的が小さくなる」ことは深刻だ。

 さらに問題となるのは、スタミナだ。吉田、伊調ともに、世界一キツいと言われる日本の練習で鍛え抜かれた選手。この夏も新潟県十日町の山あいに佇(たたず)む櫻花レスリング道場「女子レスリング虎の穴」にて、炎天下、急勾配の通称「金メダル坂」を何本も駆け抜けた。練習量は十分だが、年齢から来る衰えに加え、小さい敵にフットワークを使われ、動かされ続ければ、鉄壁のディフェンスにほころびが生じる可能性もある。

 果たして、吉田と伊調が、どのように新階級にアジャストしてくるのか。

 大会4日目、現地9月11日――。満を持してマットに上がった女王たちは、関係者たちの不安を一掃するどころか、会場に詰め掛けた全員の度肝を抜いた。

 顔を強張らせ、「1、2戦は様子を見ていきます」と言っていた吉田は、初戦の中国選手を相手にいきなりフォール勝ち。その後も冷静に敵の動き、時間など試合のすべてをコントロールし、自分のペースで攻めるときには攻め、無理に攻めず、準々決勝・準決勝と続けてフォール勝ちを収めた。そして、昨年の世界選手権55キロ級・決勝で対戦したスウェーデンのソフィア・マットソンとの金メダルをかけた戦いでは、準決勝で痛めた左肩の不安を微塵も感じさせず、まったく危なげない戦いで6−0の完封勝ち。見事、オリンピックと世界選手権を合わせた世界大会15連覇を達成した。伝家の宝刀のタックルにこだわらず、ロンドンオリンピックで開眼した「最後に自分の手が上がっていればいい」レスリングの完成か......。抜群の安定感で、リオデジャネイロオリンピックに向けて死角なしと見えた。

 一方の伊調も、まるで吉田と台本を刷り合わせたかのように、初戦からすべてフォール勝ち。決勝戦でも、ロンドンオリンピック前に吉田から金星を挙げたロシアのバレリア・コブロワ(旧姓:ジョボロワ)に付け入るスキを与えず、完封でテクニカルフォール勝ちを収めた。組み際で絶対的な強さを発揮し、組み手で相手を制してから両足タックルを何度も炸裂。磨きをかけているアンクルホールドをはじめ、多彩な技を繰り出した伊調は、難なく世界大会12連覇を成し遂げた。

 チビッ子レスリング時代からの恩師であり、今も伊調が「レスリングのお父さん」と慕う八戸クラブの澤内和興氏は、「63キロ級は作らされた階級。58キロ級こそ、(伊調)馨の階級です。レスリングをよく研究しています。練習してきた技をどんどん出せるので、楽しいんじゃないですか」と評した。

 これが、オリンピック3連覇を遂げ、さらなる高みを目指し、リオデジャネイロオリンピックで4連覇に挑む真のチャンピオンの強さなのか――。その強さ、偉大さに、栄監督も大橋監督も、「お見事! さすが!」と感嘆しかない。

 日本代表女子チームにとって嬉しい結果は、吉田・伊調だけではない。48キロ級では大学3年生の21歳、登坂絵莉(至学館大)が大会2連覇を達成。リオデジャネイロオリンピックの48キロ級金メダル候補ナンバー1に躍り出たのはもちろん、2020年東京オリンピックでも日本のエースとしての期待が高まる。

 また、これまで吉田に阻まれ、代表の座を逃してきた55キロ級・21歳の浜田千穂(日体大)は、階級増加によって掴んだチャンスをモノにし、世界選手権初出場で初優勝を飾った。55キロ級はオリンピック階級でないため、年末に行なわれる全日本選手権からは53キロ級に下げて吉田と戦うか、58キロ級に上げて伊調と戦うかの選択を迫られるが、優勝インタビューで浜田は、「世界のタイトルを獲れて、これでようやく沙保里さん、馨さんに挑戦する資格を得たと思います。まだ上げるか下げるか決めていませんが、全力でぶつかっていきます」と力強く語った。

 決勝戦で足を痛め(11日現在、骨折の疑い)、惜しくも金メダルを逃した69キロ級の土性沙羅(至学館大)は、昨年の銅メダルからワンランクアップの銀メダル。吉田沙保里の父、故・栄勝氏に鍛えられた19歳は、重量級ながら世界の強豪相手に鋭いタックルを連発。リオまでの2年間で、どこまで成長するか楽しみな存在だ。

 大会後、吉田は言った。

「若手のメダル獲得は刺激になります。それが、この大会で得た一番の収穫。国内の戦いは、今後ますます厳しくなるでしょう。日本で勝てば、オリンピックで金メダルを掴める。そんな時代になってきました」

 今回の世界選手権では、改めて日本の強さが浮き彫りとなった。試合後、伊調がちょっと照れながらマットを1周して掲げた日の丸の姿は、世界への強烈なアピールになったことだろう。

宮崎俊哉●構成・文 text by Miyazaki Toshiya