クラブ、代表で実績を積み重ねて、今夏に日本代表監督に就任したメキシコ人指揮官。現役時代から、指導者としての資質を備えていたようだ。 (C) Getty Images

写真拡大 (全4枚)

 日本代表の監督に就任したメキシコ人のハビエル・アギーレ監督。9月5日の初陣(ウルグアイ戦)を明日に控え、いよいよ初采配のお披露目の時が近づいてきている。
 
 さてそんなアギーレ監督、1995年に母国メキシコのクラブ、アトランテで監督としてのキャリアをスタートさせ、パチューカを経て2001年にメキシコ代表監督に就任。02年日韓ワールドカップでベスト16の結果を残した後、スペインに渡ってオサスナ、アトレティコ・マドリーを率い、09年に母国代表監督に返り咲いた。10年南アフリカW杯(結果はベスト16)の後、スペインに戻ってサラゴサ、エスパニョールの指揮を執り、今夏、日本代表監督に就任した――。
 
 という指導者としてのキャリアは、監督就任後からたびたび紹介されているので、すでに周知の通りだが、選手としてもアギーレ監督は確固たる実績を残している。58年12月1日にメキシコシティに生まれ、78年にクラブ・アメリカでプロデビューし、アグレッシブなMFとして活躍。80年に当時隆盛を極めていたアメリカ・北米リーグ(NASL)のロサンゼルス・アズテックスでプレーした後、クラブ・アメリカに戻り、83-84シーズンにリーグ優勝を飾った。
 
 翌シーズンよりアトランテに新天地を求め、ここで2シーズンを過ごしてから、スペインに渡ってオサスナの一員となる。始まった欧州での挑戦は、しかし加入して間もない86年10月に右足を複数か所骨折する重傷を負って頓挫、1シーズンでメキシコに帰国し、93年までグアダラハラ(チバス)でプレーして現役のキャリアを終えた。
 
 代表選手としては、79年に自国で開催されたユニバーシアードに出場し、当時は公開競技だったサッカーで優勝を飾った。83年3月15日のコスタリカ戦でA代表デビューを果たし、以降は主力としてキャップ数を増やしていく。明るい性格でチームのムードメーカーであり、当時のキャプテンだったトーマス・ボイを支える副リーダーとしても、チームに大いに貢献した。
 代表選手としてのハイライトは、何といっても自国で開催された86年のワールドカップ。前年に起きた大地震の傷痕が各地に残るなかでの大会で、名将ボラ・ミルティノビッチに率いられたメキシコはダークホースとして世界から注目されていた。

 スペインのレアル・マドリーでストライカーとして活躍していた英雄ウーゴ・サンチェスをはじめとして、メキシコは多くの好選手を擁しており、アギーレはそのなかで確固たる地位を築いた主力中の主力のひとりだった。
 
 ベルギー、パラグアイ、イラクと戦ったグループリーグを2勝1分けの首位で勝ち上がり、決勝トーナメント1回戦でもブルガリアを一蹴したメキシコ。アギーレは全ての試合でフル出場を果たす。そして準々決勝で、メキシコは西ドイツと対戦。この試合は、アギーレにとっても決して忘れられないであろう一戦となった。
 
 勢いに乗っていたメキシコに対し、西ドイツは選手のコンディションが悪く、グループリーグは1勝1分け1敗、トーナメント1回戦でもモロッコ相手に終了間際の得点で辛うじて勝ち上がるという不安定さを見せていた。試合会場は、メキシコが過去4戦を戦った首都メキシコシティではなく、アメリカとの国境に近い北部モンテレイだったが、スタンドはメキシコ国旗の三色に染まっており、あらゆる要素からも開催国有利と見られていた。
 
 試合が進むと、さらにメキシコはアドバンテージを得る。後半途中で西ドイツに退場者が出たのだ。数的アドバンテージを得て攻勢を強めたメキシコ。アギーレも積極的に前線に飛び出し、終了間際には右からのクロスをボレーでジャストミートしてゴールマウスを捉えたものの、GKハラルド・シューマッハーの驚異的な反応により弾き出された。