「現代では、複数の“世間の目”に対応するスタイルを身につけなければならない」と指摘する竹内一郎氏

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人間社会で暮らしている以上、われわれは絶えず、他人の“目”に晒(さら)されながら生きている。それゆえ、人は時に「世間体」を気にして窮屈な思いをすることがある。

世間体というのは古くからある言葉だが、フェイスブックやツイッター、LINEといったSNS全盛の今日、形を変えて多くの人々にまとわりつくものでもある。

ベストセラー『人は見た目が9割』で知られ、今回『なぜ私たちは他人の目を気にしてしまうのか』を上梓した竹内一郎氏に、現代における世間体のあり方、そして周囲の目との付き合い方を聞いてみた。

―今回、「世間体」をテーマに一冊書こうと思ったきっかけはなんだったのでしょう?

竹内 時代の変化とともに、「世間の目」という言葉のもつ意味が変わってきたなと感じたのが、今回の本を書き始めた発端です。キリスト教やイスラム教など一神教の文化が根づいた海外の国では昔から、人々が常に“神が見ている”と意識することで倫理が守られてきました。それが私たち東洋人の場合は、神様の代わりに他人の目が倫理観を育むのに大きな役割を果たしてきた経緯があります。最近は日本人論を俎上(そじょう)に載せることが少ないですし、この機会にまとめてみたいと思ったんです。

―SNS全盛の昨今は、世間の目と深く関わり合っている時代でもあるという視点が非常に興味深いです。

竹内 日本人というのは、非常にネット利用者の割合が高い国民です。しかし、本来はフェイス・トゥ・フェイスで行なってきたコミュニケーションがネットに置き換わったことで、ある種のリスクも増したと私は感じているんです。私たちは普段、相手の表情や口調などからさまざまな情報を読み取っています。例えば相手から何か不審な雰囲気を感じ取ったら、あまり深入りしないよう配慮したり。ところがネット上のコミュニケーションでは、そういった非言語の情報が存在しません。空気を読むことができないというのは、やはりデメリットですよ。

―確かに、テキストだけで行なわれるメールやメッセンジャーでのやりとりは、たまにとても無愛想なものに見えます。

竹内 そうでしょう? 日本語は早くも奈良時代に確立し、その後長い時間をかけて磨き上げられてきた言語です。言語自体が早期に確立された分、日本人はちょっとした表情や所作で、きめ細かに気持ちを表現する術(すべ)を身につけてきました。欧米人に言わせれば、日本人の物言いは曖昧(あいまい)で態度をはっきりさせない民族のようですが、実際はそうではありません。日本人同士が顔を突き合わせて話をする際には、ちょっとした所作で細かな機微を伝え合い、読み合っていますよね。

―その微妙な機微が、ネットでは表現できない、と。

竹内 そう。つまり、ネットの登場によって“世間さま”の形は変容しているので、それに合わせて私たちにとっての「世間体」のあり方も変えていかなければならないんですよ。

―SNSでいうと、フェイスブックの普及により、自撮りして写真をアップするおじさんが意外と多いことに驚かされます。

竹内 それも、自分のことを“わかってほしい”という、自己顕示欲求の表れなんでしょうね。人は本当に恥ずかしいこと、知られたくないことは絶対にSNSには書き込みません。結局、SNSというのは日記のようでいて、実際はそうではないんですよ。私は常に日記帳を携えていますが、幼稚な恨み節や赤裸々な内面の声がけっこう書き込んでありますから、他人に見られるくらいなら死んだほうがマシだと思っています(笑)。

―SNSを通して世間に“見せたいもの”も、人それぞれですよね。例えば食事のシーンでも、高級フレンチをアップする人もいれば、牛丼やファストフードをいちいちアップする人も……。

竹内 本来であれば、牛丼なんて発信しなくていい情報ですよね。彼らとしてはSNSを日記的に使っているつもりなのかもしれませんが、日記とはもっと赤裸々で恥ずかしいものであるはず。人に見られたくないものを投稿しているのでないかぎり、それは日記とは呼べません。

―日頃、仕事でやりとりをしている人が、SNS上では別人のようなキャラで戸惑うことも多々あります。つまり、現代ではネットという、世間の目のバリエーションが増えてしまったと考えるべきですね。

竹内 そのとおりだと思います。ネットで起こる炎上というのも、そうした新しい世間の目によって起こるものです。私のように長年メディアの世界にいると、ある程度慣れっこですけど、一般の人にとっては衝撃的な事態でしょうね。私は『人は見た目が9割』が売れたときも、ものすごいバッシングを浴びましたから。人を見た目で判断するなんてけしからん、と(苦笑)。

―また、若者を中心に、世間の目を気にしない人が出現していることも、本書の中では触れられています。わかりやすいところでは、電車内で化粧をする人などですね。

竹内 そうですね。これは「場」の使い分けで、彼女たちは電車の中を社会の範疇(はんちゅう)から外しているんでしょう。周囲にいるのが直接的な知り合いでない以上、それを世間の目と認識せず、化粧するところを見られていても関係ないと思えてしまうんですね。そういう層は若い世代を中心に増えてきていると思いますよ。

―原因はいったいなんでしょう?

竹内 理由のひとつには、ひとりっ子が増えたことと無関係ではないでしょう。兄弟がいると、それだけでチェック機能が働くものですから。家庭内という“地”があらわになりやすい空間にほかの人の目が介在することで、人はいろんなことを学ぶわけです。例えば、ちょっとしたものの言い方や、テレビの適切な音量などですよね。ところが、今は個室を与えられている子供も珍しくないし、兄弟と対話をする代わりにモニターと向かい合う時間が増えている。そのせいなのか、周囲を見ていても表情の乏しい人が増えてきたように感じますね。

―そう考えると、なんだか社会がどんどん無機質になっていくようで、不安になります。

竹内 こうした変化というのは、功罪あると思うんですよ。皆がさまざまな形で多様な意見を口に出せる社会というのは、決して悪くないと思います。ただし、そうした環境を上手に活用するだけのトレーニングをどう積むかが問題。コミュニケーションというのは、皆さんが思っている以上に高い知的水準が求められるものですから。

―まだまだ人々の暮らしとインターネットとの関わりは深まっていくでしょうし、こうした時代に合わせたコミュニケーション力をいかに養うかが重要ということですね。

竹内 そうですね。そもそも日本は小さな島国ですから、古来、相手のリアクションからさまざまな心情を読み取らなければ生きていけない土壌があったわけです。現在ではコミュニケーションツールが多様化したからこその、新しい世間のリテラシーが求められているということです。まずはその事実を認識し、複数の世間の目に対応するスタイルを身につけなければなりません。

―最後に、そうした時代に適応するために、私たちは日頃から何を意識していればいいでしょうか?

竹内 相手の気持ちを読み取るトレーニングという意味では、恋愛やマージャンはいいかもしれないですね。表情やしぐさから相手の心理を読み解く。これは非言語コミュニケーションを磨くのに最適でしょう。特に『哲也』の原作者としては、マージャンの復権を訴えておきましょうか(笑)。

(取材・文/友清 哲 撮影/岡倉禎志)

■竹内一郎(TAKEUCHI ICHIRO)

1956年生まれ、福岡県出身。横浜国立大学卒業。劇作家、演出家、博士(比較社会文化、九州大学)。九州大谷短期大学助教授などを経て、宝塚大学教授を務める。また、「さいふうめい」名義で漫画の原作も手がけている。2000年に『哲也 雀聖と呼ばれた男』で講談社漫画賞を受賞

『なぜ私たちは他人の目を気にしてしまうのか』

三笠書房 1100円+税

ベストセラー『人は見た目が9割』の著者が“他人の目”について徹底的に考察。自分は周囲からどう見られているのか? 人間誰しも気になってしまう「世間の目」について、エッセイ風に論じていく。SNS全盛の現代社会だからこそ、世間体のあり方、そして「世間の目」との上手な付き合い方を覚えたい