錦織圭というアスリートは、基本的にウソがつけない人なのだと思う。テニスコートの上では、あんなにも容易に相手の裏をかくプレイを見せるのに、会見の席になると話は別だ。

 全米オープンの開幕を3日後に控えた8月22日(現地時間)、錦織は大会開催地のニューヨーク市内で、会見の席を設けた。約3週間前、右足の親指 裏にできた膿疱(のうほう)の摘出手術を施行し、出場が危ぶまれていた今季最後のグランドスラム。それでも錦織は21日に現地入りし、22日には会場で練 習姿も披露している。会見は現状報告とともに、大会出場の意気込みを語る席かと思われていた。

 実際に会見では当初、錦織はケガに関する問 いに対し、「決断には迷いがあったが、やはり全米オープンには出たい気持ちが強く、チャンスにかけることにしました」「とりあえず1回戦を戦って、調子を 上げていくしかない」など、出場を前提にした答弁を行なっていた。だが、「出場を決めたのはいつか?」という直接的な質問を向けられた時、彼は、ごまかし の言葉を口にできなかったのだろう。胸の内の戸惑いが、みるみる表情に映し出される。少し間を置いてから錦織は、「正直、まだ出場も決めてないので......。 試合ができるかどうかも、当日にならないと分からないです」と素直に認めたのだった。

「もちろん出るつもりで準備はしているし、ここに来ている以上は、どうにか治して出ようと思っています。ただ、痛みがぶり返したら、満足いくプレイはできないので......。目標も、とりあえず1回戦を戦い抜けるかというところです」

 それが、錦織の「正直な」現状である。

  1年の間に20〜30の大会に出場し、世界各国の街から街、コートからコートを転戦するテニスの世界は、実にシビアだ。年間スケジュールを「ツアー」と呼 ぶのは言い得て妙で、選手にとっては旅こそが日常であり、生活の基盤。旅の中で試合をし、練習をし、食事を取り、そして眠る --。世界トップのアスリート と言えども、決して超人ではない。普通の人々の日常に病気や不慮の出来事が付きもののように、選手たちもツアー中には、様々な日常的要因に悩まされもす る。

 錦織が今回不運だったのは、彼が患(わずら)った膿疱は、試合や練習中に突発的に負ったものでなく、手術で除去せざるを得ない状況に達したのが、全米オープンの直前だったということだ。

 実は錦織が、最初に異変の兆候を感じていたのは、今年に入ったばかりのころだったという。

「いつもはできないマメが、できているな......」

 最初は、その程度の気がかりが心に引っかかるだけだった。だがやがて、それは痛みに変わる。「半年くらいは痛みを抱えながら」続けていたが、「この2カ月くらいで急に増してきた」のだと錦織は明かした。

  そして約1カ月前のワシントンDC大会で、その痛みは動けないほどに達する。そこで改めて精密検査を受けたところ、膿(うみ)がたまっていることが判明。 時期が時期ではあったが、「この痛みのままでは満足のいくプレイができないので、取り除くことにした」というのが、現在に至る経緯だ。テニスの試合が四大 大会だけなら、大がかりな治療や調整の目処も立てやすいだろう。だが実際、この世界には四大大会にひけを取らぬクラスのトーナメントも、ごろごろと存在す る。今回の全米オープン直前のアクシデントは、ツアーという非日常的な日常の中で、偶発的に勃発したものだ。

 ツアーの過酷さということで言うと、奇しくも今回の会見で、錦織の興味深い発言があった。地元の邦人誌の記者による「ニューヨークでは、どのような場所で何を食べるか?」という問いに対し、錦織は次のような言葉を残したのだ。

「ツアーではリラックスできる時間がない中、食事が一番リラックスし、モチベーションを上げられる部分。なので、できるだけ美味しいところを回るようにしています」

 選手たちは慌ただしすぎる日々の中で、なんとか気持ちを切り替え、盛り上げる要素を見いだそうとしているのだ。

  そしてもうひとつ、ツアーの孤独を軽減し、モチベーションを否が応でも上げてくれるものがある。それが、ともにツアーを回り、切磋琢磨していける仲間の存 在だ。テニスの世界では、ノバク・ジョコビッチの台頭によってセルビアがテニス大国になったり、ロジャー・フェデラー(スイス)の背を追って世界で戦って きたスタニスラス・ワウリンカがグランドスラム(2014年・全豪)を制するなど、同国の選手間での相乗効果が間違いなく存在する。錦織も、ツアーを一緒 に転戦できる仲間の登場を切(せつ)に願うひとりだ。

 そのような彼の想いが届いたのだろうか? 今回の全米オープンでは、伊藤竜馬、ダニエル太郎、さらに西岡良仁の3選手が、予選を突破して本選出場権を獲得。そのうち、ダニエルと西岡は24歳の錦織よりも若く、特に西岡は今回が予選初出場の18歳である。

  そのふたりが「この試合に勝てば本選出場」という予選決勝に向かう前、錦織は後輩に声を掛けようと思いつつも、「重荷になるような言葉を掛けたくないと思 うと、アドバイスする勇気がなかった」のだという。それは、この世界の過酷さを誰よりも熟知する錦織ならではの、同胞の成功を心から願うがための"積極的 な静観"だったのだろう。そうして、自らが立つステージに足を踏み入れつつある戦友を得たことについて、錦織は次のような想いを語った。

「日本全体のテニスのレベルが、さらに上がっている。以前に添田(豪)君と伊藤君が100位内に入っていたような状況が、また見られると思います。特に若いふ たりが勝ち上がってきているのは、日本のテニスにとって良いこと。なので、デビスカップがすごく楽しみですね。ワールドグループ(上位16カ国によるトー ナメント)にどんどん出ていける国を作りたいです」

 錦織圭というアスリートは、基本的にウソがつけない人なのだと思う。だからこそ、彼が口にする言葉には、そして浮かべる表情には、まっすぐに信じたくなる力が宿る。

  錦織が今回の全米オープンに出場できるかどうか、それは、まだはっきりとは分からない。それでも、後輩の成長を喜ぶ彼の声からは、希望の匂いが立ちこめ る。のちに、「今の日本テニス界の快進撃は、あそこから始まったね」と振り返るターニングポイントが、今年のニューヨークになるのかもしれない。

内田暁●文 text by Uchida