桑田真澄

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甲子園の優勝投手は大成しない、と言われるが、データで見ればどうなのか?を調べてみた。

戦後の夏の甲子園の優勝投手のその後。長い表なので、2つに分ける。

1946年から1976年まで




戦後最初の優勝投手平古馬は、本格派の左腕だったがプロ入りせず。しかし後にパリーグの審判になっている。

福嶋一雄は2大会連続の優勝投手。アマチュア野球界の重鎮になり、2013年殿堂入り。夏の甲子園優勝投手で殿堂入りしたのは福嶋だけ。

1949年の湘南の優勝投手は田中孝一だが、中心選手は監督の息子でもあった佐々木信也。のちに「プロ野球ニュース」の名キャスター。

1952年の植村義信は名投手コーチとして知られた。

1953年の空谷は、各球団による大争奪戦が行われた。当時としては破格の210万円の契約金で中日に入団。このときに契約金なしで南海にテスト生として入団したのが野村克也。「空谷に負けるか!」と思ったそうだ。

また、この大会の南関東予選でライナー性の本塁打を打って注目されたのが長嶋茂雄。長嶋にとっても空谷は目標だった。後に長嶋茂雄は空谷から1本塁打している。

1960年の柴田勲は、巨人に入ってから外野手に転向。赤い手袋で走り屋として活躍。巨人では王、長嶋に次いで3人目の2000本安打者になった。以後、巨人生え抜きで2000本を打った打者はいない。

1961年の尾崎行雄は優勝すると高校を中退して東映に。怪童と言われスターになった。肩を痛め、盛りは短かった。

1965年の三池工の監督は、巨人原辰徳監督の父、貢。アンダースローの上田は5試合全部完投。

1969年の松山商井上は、甲子園のアイドル三沢の太田幸司と引き分け再試合を投げ抜いて勝利。大学卒業後、朝日新聞の記者となり、今も高校野球の記事を書いている。

1973年の広島商、佃正樹は、のち広島の捕手となった達川光男とのバッテリーで、江川卓を破って栄冠。佃は江川とともに法政大学に進むが、大学では登板の機会が無かった。のちに社会人に進むが活躍できず。52歳で亡くなった。

1975年の小川淳司は今のヤクルトの監督だ。

1977年から2013年まで



※グレーは現役

77年の松本は、甲子園のアイドル、東邦高校のバンビ坂本と投げ合った。ドラフト1位で阪急に入ったが活躍できず。

78年の西田は広島では代打の切り札として活躍。今は独立リーグ四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナースの監督。リーグ優勝9回の名将だ。

80年の愛甲猛もプロ入り後、打者に転向。

83年の桑田真澄は、巨人のエースとして活躍。後に大リーグにも挑戦。今は東大野球部を指導。

87年の野村弘は現在は野村弘樹と名乗っている。横浜のエース。今は解説者。

98年の松坂大輔は、ノーヒットノーランで優勝。今はMLBでひじの故障を抱えて奮闘中。

2006年の斎藤佑樹は早大から日本ハムへ。肩を故障したが、今月に2年ぶりに勝ち星を挙げた。

2009年の堂林も広島入団後野手に転向。強肩で守備範囲の広い遊撃手。打撃も急成長している。

2012年の藤浪は今や阪神のローテーションをメッセンジャーとともに支えている。
投げ過ぎが心配。

昨年の高橋光成(こうな)は、2年生だったが、今年は県大会で敗退した。

夏の甲子園の優勝投手で、プロ入り後最も勝ち星を挙げたのは桑田真澄の173勝。100勝以上は松坂大輔、尾崎行雄、野村弘の4人。名球会の基準である200勝を挙げた投手はいない(2000本安打は柴田勲がいる)。

戦前までさかのぼっても野口二郎(237勝)があるだけ。また春の大会をみても平松政次(201勝)がいるだけ。

野球殿堂入りしたのは前述のとおり、福嶋一雄ただ一人。

最近まで、甲子園で優勝するためには少なくとも3連投はしなければならなかった。炎天下での過酷な試合が、選手、とりわけ投手に大きな負担を強いたと言えるかもしれない。

投手から野手に転向した選手が多いのもそれを物語る。また、この舞台で燃え尽きた選手も結構いたのではないか。

「甲子園の優勝投手は大成しない」は、ある程度当たっていると言えよう。

【執筆:広尾晃】
1959年大阪市生まれ。日米の野球記録を専門に取り上げるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドアブログ奨学金受賞。著書に「プロ野球なんでもランキング」(イーストプレス刊)。