3戦全敗を喫した北京五輪だったが、人材供給という点でチームは一定の使命を果たしたと言える。(C) Getty Images

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 各世代の代表選手たちが歩んできた過程には、知られざる様々なストーリーがある。『週刊サッカーダイジェスト』では、その軌跡に焦点を当てた浅田真樹氏のコラム「追憶のGeneration」を月1回で連載中。
 
 今回は、ザックジャパンの骨格を成した北京世代をテーマに、いまや欧州で5シーズン目を迎える長友や岡崎が頭角を現わすきっかけとなった「原点の一戦」のエピソードをお送りする。
(※『週刊サッカーダイジェスト』2013.8.6号より)
 
【北京五輪】日本代表メンバーを写真で振り返る
 
「アテネ経由ドイツ行き」
 
 そんな言葉で五輪世代の選手たちに具体的な目標を指し示したのは、2004年アテネ五輪代表で監督を務めた山本昌邦だった。
 
 五輪に出場することや、そこで上位に食い込むことはひとつの通過点に過ぎず、2年後に開かれるワールドカップへのステップにしなければ意味がない。つまりは、アテネ五輪経由でドイツ・ワールドカップへの出場を目指そう、ということだ。
 
 しかし、実際に「アテネ世代」で目標を達成できたのは、駒野友一と茂庭照幸の2名に過ぎない。
 
 しかも、ともに本大会では1試合(オーストラリア戦)に出場したが、右SBとして先発フル出場した駒野は、あくまでも負傷した加地亮の代役出場。茂庭は途中交代によるわずかな出場時間だけだった。
 
 五輪世代、すなわち、概ね20歳から23歳という若い選手たちにとって、わずか2年の間にA代表の一員となり、さらにはワールドカップに出場するということは、容易く達成できる目標ではなかったわけだ。
 
 ところが4年後、状況は一変する。
 
 2010年5月10日、南アフリカ・ワールドカップに出場する日本代表が発表されると、読み上げられた選手23名のなかに5名の「北京世代」が含まれていた。
 
 長友佑都、内田篤人、岡崎慎司、本田圭佑、森本貴幸。彼らは、いずれも2年前の北京五輪に出場した、すなわち「北京経由南アフリカ行き」を果たした選手たちである。
 
 単純に数だけを比べれば、4年前から3名が増えたに過ぎず、それほどのインパクトはないかもしれない。だが、5名の北京世代のうち、長友、内田、岡崎については、すでにワールカップ予選をレギュラー格として戦っていた。数だけでなく質のうえでも、そこにはアテネ世代との明らかな差があった。
 
 3戦全敗でグループリーグ敗退――。いかにも彼らは北京五輪で惨敗を喫した。しかし、A代表へいかに優れた人材を送り出すかという五輪代表の本来的な使命に関しては、十分に果たしたと言えるのではないだろうか。
 
 4年前のワールドカップの直前、私はそんなことを考えながら選出メンバーの顔ぶれを眺めていて、ふとある1試合に思いが至った。
 
 2007年6月6日に行なわれた、北京五輪アジア2次予選でのマレーシア戦である。
 その3週間前、香港とのアウェー戦に勝利した日本は、すでに最終予選進出を決めていた。東京・国立競技場での、この2次予選最終戦は、いわば消化試合だった。
 
 そんな背景もあって、日本は香港戦から先発メンバー10名を入れ替えてこの試合に臨んだ。簡単に言えば、それまで予選を戦ってきた主力組に代えて、控え組のほか、この試合のために新たに招集した新顔を数多く送り出したのである。
 
 当然、そこで行なわれていたのは新戦力のテストである。だが、当時の私の正直な気持ちを言えば、「そう多くは望めまい」だった。
 
 メンバーを大きく入れ替えれば入れ替えるほど、チームとしての機能性は下がる。それだけ各選手の見極めは難しくなり、どこまでテストが成立するかは疑わしいからだ。
 
 ところが、私の予想は大きく外れた。見当違いもいいところだった。実は、このマレーシア戦で初めて試された新戦力というのが、長友であり、岡崎だったのである。
 
 それまでA代表はおろか、五輪代表ですら満足に試合に出られなかった「その他大勢」のなかから、3年後、ワールドカップのピッチに立とうかという選手がふたりも現われたのだ。長友に至っては当時、明治大に所属する無名選手。「その他大勢」でさえなかったかもしれない。
 
 テストの効果について私が高を括って見ていた試合は、しかし、北京五輪代表にとっても、その後の日本代表にとっても、限りなく大きな意味を持つ試合だったわけである。
 
 そんな事実に思い至ると、俄然、マレーシア戦というエポックメイキングな試合に対する私の興味は膨れ上がった。
 
 かつて北京世代を率いた指揮官は、どれほどの期待、あるいは見込みを持って、新戦力発掘テストを行なったのか。また、そのなかからワールドカップメンバーが誕生したという「快挙」について、どんなふうに感じているのか。
 
 南アフリカへの取材に発つ前に、それらの関心を満たしておきたい。そう思った私は、神奈川・平塚にある湘南ベルマーレの練習場へと向かった。もちろん、北京五輪代表監督にして、当時、湘南監督を務めていた反町康治に直接話を聞くためだ。
 突然の「アポなし訪問」にもかかわらず、快く取材に応じてくれた反町に対し、単刀直入に質問をぶつける。マレーシア戦での選手起用の意図は、どんなところにあったのか、と。
 
「香港戦で(2次予選の)突破が決まったことによって、マレーシア戦には3つの意味合いがあった」
 
 反町はそう切り出すと、こちらの疑問に答えてくれた。
「まずは、カードがリーチ(イエローカードを1枚もらっている)の選手を使うことは避けなければいけなかった。もうひとつは、次のステージへ向かうための1試合として、新しい選手を試さなければいけなかった。そして3つ目は、この年代では(メンバーを固定した)ひとつのチームにこだわって熟成させるよりも、いろんな選手を呼んで、例えば新しく呼んだ選手が最終的に選ばれるかどうかは抜きにしても、その選手のサッカー人生をより刺激的なものにしたかった。この3つだな」
 
 加えて、10名もの先発メンバーを入れ替えるという大胆な選手起用ができたのには、あるひとつの理由があったとも明かす。
 
「あの時は、試合前に1週間近く合宿ができた。もし月曜日に集合して水曜日が試合という日程だったら、(新しい選手は)ちょっと選べなかっただろうね」
 
 静岡・御殿場で行なわれたこの合宿には、2次予選での出場時間が短かった選手に初招集の選手などを加え、総勢24名が選ばれた。反町は、あえてマレーシア戦に登録できる18名を超える数の選手を集めることで、互いを意識し合うように促し、意図的に競争心を煽った。試合を前に、メンバーから外れる選手が出ることも計算づくだった。
 
 それどころか、「本当は、もっと下の年代(当時のU-20代表世代)からも呼びたかった」と反町。「呼ぶに値する選手はいっぱいいたから」。
 
 残念ながら、当時はU-20ワールドカップを1か月後に控えていたために、彼らを合宿に加えることはできなかった。だが後に、森島康仁、内田、柏木陽介らが選ばれたことは、反町の言葉を裏づける。
 
 多くの新戦力を集め、選手の人となりまでを十分に見極めたうえで試合に臨む。決してぶっつけ本番で先発メンバーをほぼ総入れ替えにしたわけではなかったのだ。反町は言う。
 
「この世代っていうのはひとつのきっかけで大きく変わる。それは我々にとっても、(チームが変わる)プラスのきっかけになる」
 
 とはいえ、北京五輪代表のサッカーが当時、まだまだ未完成だったことも事実である。2次予選を5戦全勝できていたとはいえ、その内容は魅力的なものには映らなかった。
 
 そこで反町への質問を続ける。あの時、主力組を引き続き起用し、目指すサッカーを確立させようという考えはなかったのか、と。
 
「オレは、まったくそうは思わなかったな。この(従来の)メンバーではちょっと限界に来ているかなっていうのがあったから。だから、迷いはなかった」
 
 また、このマレーシア戦では、五輪世代が置かれた難しい立場を象徴するような選手にも、出場のチャンスが与えられていた。
 
 それが細貝萌である。細貝は長友らと違い、早くから北京五輪代表に選ばれ、すでにチームに定着していた。だが、彼の立場は控えがもっぱらで、ピッチに立つ機会はほとんど与えられてこなかった。
 
 細貝の評価が低かったということでは決してない。反町は3年前を懐かしむように「あの試合、萌は後ろ(DF)で使ったんだよな」と言い、彼についてこう語った。
 
「萌は当時、レッズで(ベンチ入りの)18人のメンバーにも入っていなかった。だから、ここでゲームフィーリングを掴まなくちゃならなかった。能力はあるのにと思いながらチャンスがなくて、あそこでやっと使えた。やっとだよ」
 
 この年代の代表は、所属クラブで活躍している選手をピックアップすればいいというものではない。逆に所属クラブで出場機会に恵まれず、くすぶっている選手に対してモチベーションを与える役割も持つ。五輪世代ゆえの様々な難しさを理解していたからこそ、反町はこう続ける。
 
「だから、あのマレーシア戦というのはすごく大きな意味があったんだよ」
 果たして、新戦力がはつらつとした動きを見せたマレーシア戦は、3-1の勝利で終えている。試合後の記者会見では、メディアの関心は当然、今後の可能性を含めた新戦力の評価に及んだ。
 
 もちろん、反町がそれぞれの選手について評価を口にすることはなかった。だが、彼独特の表現でこんなふうに答えている。
「具体的な選手名は挙げないけれども、マルもいたし、サンカクもいたし、バツもいた」
 
 長友や岡崎については、どうだったのか。今となっては聞くまでもない質問に、間髪入れず返ってきた答えは、「マル」だった。この試合で先制点を決めるなど、高い評価を受けた長友は、後に大学卒業を待たずにプロへの道を歩み出すことになる。
 
「彼の人生にとってよかったのかどうか分かんないけど、そのための1試合だった。試合は90分だけど、その前の合宿も含めると、その刺激は相当なものだったと思う」
 
 そして、最後に反町に尋ねる。北京五輪に出場していた選手が3名、しかも主力として間もなく始まろうとする南アフリカ・ワールドカップに臨む。五輪代表の使命としては十分な成果と言えるはずだが、その満足度はいかほどのものか。
 
「満足は別にないよ。一番大事なのは、そこ(ワールドカップ)で何ができるかだから」
 数週間後、日本代表は南アフリカの地に立った。
 
 ところが本大会が始まると、内田は先発落ちし、岡崎はスーパーサブへと配置転換。長友こそ全4試合に先発フル出場したものの、大会直前に当時の日本代表監督、岡田武史が戦術変更に踏み切った影響もあり、彼らの立場は大きく揺らいだ。
 
 結果的に、同じ北京世代の本田圭が彼らに代わって活躍することになるのだが、反町が口にした「そこで何ができるか」という尺度で言えば、世代全体としてのインパクトは薄らいだことになる。
 
 しかし、北京世代にとっての南アフリカは、その後に続くストーリーの序章に過ぎない。北京五輪に出場した、内田、長友、岡崎、本田圭、吉田麻也、香川真司は、南アフリカ後の日本代表を常に主力として引っ張ってきた。現在の日本代表において、北京世代は押しも押されもしない中心世代である。
 
 しかも、その勢力はとどまるどころか、さらに拡大の可能性を秘める。その代表格が豊田陽平だ。
 
 思えば、北京五輪の3試合を通じて日本唯一のゴール(ナイジェリア戦)を決めたのは、豊田だった。惨敗した日本の救いとなったストライカーは、ゴールを量産し続ける現在、A代表選出への期待が最も高い選手のひとりとなっている。
 
 豊田だけではない。それぞれの所属クラブで主力として活躍する水本裕貴、森重真人なども、今後日本代表に選出されたとしても不思議はない。彼らの活躍次第でさらに北京世代の存在感は強まるはずだ。
 
 もしも彼らが日本代表に名を連ね、来年6月、ブラジルへと渡るようなら。いよいよ北京世代は空前のタレント世代として、日本サッカー史に燦然と輝くことになる。
 
文:浅田真樹(スポーツライター)
 
※『週刊サッカーダイジェスト』2013年7月9日号より