『ヒトラー演説  熱狂の真実』(中公新書)

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 1930年代のドイツに独裁的な全体主義体制を確立した政治家であり、対外侵略の強行から第二次世界大戦を引き起こし、また人種差別政策のもとユダヤ人を迫害・虐殺したことで知られるアドルフ・ヒトラー。いまではその行ないのほとんどが否定されているが、なぜ彼は当時のドイツ国民から熱狂的な支持を集め、権力を掌握することができたのだろうか。その理由の一つとして、巧みな演説術があげられる。先ごろ中公新書より刊行された高田博行『ヒトラー演説 熱狂の真実』(中公新書)は、言語学者(専攻は近現代のドイツ語史)である著者が、ヒトラーの行なった膨大な演説を分析することで、彼の台頭の秘密を解いた一冊だ。

 ヒトラーの演説というと、激しい身振り手振りを交えながら絶叫するさまが思い出される。しかし、それはけっして恣意的なものではなく、綿密な計算にもとづいたものであったという。本書では、ヒトラーが首相就任直後の1933年2月10日、翌月の国会選挙を告知するための催しで行なった「ドイツ国民への呼びかけ」と題する演説を、その記録映像から細かく検証している。それを読むと、どこかの大臣ではないが「ヒトラーの演説に学んだらどうか」と思わず言いたくなるほど、巧妙な仕掛けが凝らされていることがわかる。

 ヒトラーは演説の冒頭から叫んだり激しく手振りしたりしていたわけではない。このときの演説ではまず「今年1月30日、国民を統合する新政府(ナチス政権)が樹立された」とおごそかに宣言、両手は下で合わせて、ジェスチャーをしないように意識して努めていた。声のほうは、ナチ運動を始めた理由を語り始めると、だんだん高くなっていく。

 両手を下で合わせるポーズは、聴衆の喝采やヤジを抑えるという側面もあった。だがそれだけでは間が持たない。そこで演説を進めながら今度は腕を組む。腕組みポーズは、静かな立ち姿を印象づけるものだ。このあとも、聴衆から喝采が起きると、ヒトラーはほんの一瞬、腕組みをしてジェスチャーを止めた。これには、《喝采という評価を受けつづけるよりも、自らの主張を語りつづけるほうが重要だとヒトラーが謙虚に考えていると聴衆に感じさせる効果がある》という。

 左右の手の使い分けも興味深い。「じわじわと個々のドイツ人の生活がさらに落ちぶれていった様子」という箇所で、ヒトラーは左手でリズムを取り、手刀を切る。

《左手はヒトラーの利き手ではないので、ゆっくりした激しくないジェスチャーをするのにあてがわれている。(中略)そしてその弱い左手が、そのあとに用意された両手と強い右手による激しいクライマックスのジェスチャーを引き立てることになる》

 このことだけでも、演説の内容にあわせて、じつに巧妙にジェスチャーが使い分けられていることがうかがえよう。このほか、ヒトラーのジェスチャーのなかでもとくに印象深い、指さしにもちゃんと意味があった。それはたとえば、「この」「これ」といった指示代名詞に結びついていたりするのだが、それ以上に、ヒトラーから見た敵対者を糾弾したり、事柄全般について否定したりする際に頻繁に用いられた。著者いわく《指さしによって、敵と味方、肯定と否定といった何らかの対比構造が背景にあることが聴衆に対して暗示されていると思われる》。

 じつはヒトラーは、政権を掌握する少し前、1932年の4月から11月にかけて、オペラ歌手から発声法の指導を受けていた。これというのも、同年中に5回もの選挙戦を戦うなかで、ヒトラーは各地で多数の演説をこなし、声帯を酷使していたからだ。声帯麻痺を懸念する医師の勧めもあり、ヒトラーは訓練を受けることにしたのである。ただし、これは「演説の天才」というヒトラーのイメージを崩さないよう、秘密裏に行なわれた。

 デヴリエントというその指導役の歌手は、初対面時にヒトラーの演説を聴き、さっそくその問題点を見抜く。ヒトラーは1時間も演説すると、汗びっしょりで息も絶え絶え、それでも無理をして発声するので、声がしわがれてしまった。そのうえ《急速に声が弱まるのを大げさなジェスチャーでカバーしようとすることで、「田舎芝居」になる》。後日、本格的にレッスンに入ると、デヴリエントはまず、力を振り絞らずに行なうのが正しい発声法であることを教えた。一所懸命に発声練習に取り組んだ甲斐あって、レッスン1回目にして呼吸法は改善され、声量も増えたという。

 その後のレッスンでもデヴリエントは、「感情語」をきちんと感情を込めて発音すること、またヒトラーのジェスチャーは自己的で、これでは聴衆に媚びるだけだと鋭く指摘した。ジェスチャーについては、《むやみに手を振り回したり、揺すったり、指さししたり、振ったりするのはもうやめるべきで、ジェスチャーは意味を明確にするものでないといけないという説明がなされた》。先にとりあげた1933年2月の演説に、こうした指導内容が生かされていることはいうまでもない。

 もっとも、政権獲得直前にこのような指導を受けたとはいえ、ヒトラーが少年時代から演説を得意とし、その才能によって世に出てきたことはまぎれもない事実だ。本書によると、演説文の構成と表現法に関していえば、ヒトラーの演説は、遅くとも1925年頃(年齢でいえば36歳ぐらい)には完成の域に達していたという。

 もともとの演説力に加え、当時開発されたばかりのマイクやラウドスピーカーといった装置を用いることで、ヒトラーの演説は、聴衆に対し大きな到達力と深い浸透力を獲得する。さらに、短時間のうちに多くの場所での遊説を可能とした飛行機、またラジオや映画と、当時の新しいテクノロジーを駆使することで、ヒトラーは政権をとってからもそのカリスマ性をますます高めていった。

 だが、それにもかかわらずヒトラーの演説は、政権獲得の1年半後にはすでにドイツ国民に飽きられ始めていたというから意外だ。ラジオを例にあげれば、すべてのラジオ所有者は、同居者全員にヒトラーの演説を聴かせることが義務づけられ、聴けない場合はその理由を指定の用紙に記入せねばならなかったという。こうして見ると、反発を招いたのは無理もない。

 やがて1939年にはドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発、時間を追うごとにドイツが劣勢になるうち、ヒトラーの演説は説得力を失うばかりか、彼自身が演説をする気をなくしてしまうのだった。ヒトラーは失意のなか、1945年4月、連合国軍によるベルリン陥落直前、自ら命を絶つことになる。

《国民を鼓舞できないヒトラー演説、国民が異議を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。このようなヒトラー演説の真実が、われわれの持っているヒトラー演説のイメージと矛盾するとすれば、それはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに、八〇年以上も経った今なおわれわれが惑わされている証であろう》

 これは本書のエピローグにおける一文だ。ヒトラーに権力を与えたドイツ国民はプロパガンダに惑わされたのだと批判することはたやすい。しかしその批判こそが、ヒトラーのプロパガンダへの過大な評価を前提としているともいえる。だとすれば、あの時代のドイツ国民もいまの私たちもそんなに変わりはないだろう。せいぜい、政治家の巧みな弁舌に惑わされないよう、日頃から気をつけなければ。
(近藤正高)