この夏、ネトウヨに読ませたい三冊(3)ただひたすら歩く、悪夢のような行軍

写真拡大

 わが左巻き書店のブックフェア、前回、前々回の2回は、人肉食いという戦争の惨劇を記した2冊の文学作品を紹介してきた。

 しかし、まだ極限状況に至らない時点での戦争のリアルはまた様相をまったく異にしている。ただただひたすら歩き続ける行軍が大半を占める。そうした戦争のリアルは、火野葦平『土と兵隊・麦と兵隊』(社会批評社)で読むことができる。火野葦平は芥川賞受賞後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」従軍記三部作を書き、人気作家となった。戦中の発表なので、もちろん反戦を意図するものではない。ただ、その延々と続く目覚めることのない悪夢のような行軍の過程で遭遇する、銃撃や死体を通して、ただ日々の生存を確認するだけの記録は、戦争がけして英雄的行為に彩られているものではないことを、切実に伝えている。

「土と兵隊」の最後に次のような記述がある。

「我々は又前進だ。どこまで行くのやら判らない。...私の足は豆を踏み潰し、板のようになった。つめは黒くなって剥げてしまった。我々はも早、この進軍を続け得るものは、我々の肉体ではないということを知ったのだ。...我々の前途にはいかなる苦難があり、いかなる凄絶なる戦場が待っているか、想像もつかないが、何があってもよい、我々はただ進んで行けばよいのである。...我々の進軍は又もや泥濘の進軍に相違ない」

「泥濘の進軍」とは中国大陸でのぬかるみにはまり込んでいく戦争の進展を示唆しているようにも読めるが、作者にはそのように戦争を相対化してとらえる視点も当時はなかったに違いない。ただただ日常の行軍の苦難を素直に伝えただけだろう。

 おあつらえ向きのドンパチへ突撃する華やかな戦闘などどこにもない。そんなものだけで戦争が構成されていると考えているのは、アニメやアクション映画でしか現実を学ばないからだ。

 もし、これらの作品がいま現在の新作として発表されたなら、徹底した罵倒が浴びせられ、火だるまとなるほど炎上させられるだろう。しかし、戦争体験者が多く生存し、戦争の記憶が鮮明だった当時、そこに描かれた戦争の残虐を否定する者などいなかった。むしろ、戦争下の人間の描写において文学作品として高い評価を得ている。

 前々回に取り上げた『軍旗はためく下に』は戦後25年目の1970年に直木賞を受賞するが、選考委員は司馬遼太郎や佐藤栄作内閣の初代文化庁長官・今日出海ら。サヨクの仲間褒めなんて言わせないぜ。前回の『野火』は51年という戦争終結からほんの6年後に発表され、読売文学賞を受賞した。『麦と兵隊』は38年に刊行され、ミリオンセラーとなっている。
 
 戦争の陰惨、悲劇、罪過は、戦争体験者がたくさん居た、ついこの間まで、誰もが知っていたのだ。これらの文学作品の存在と評価がそれを示している。戦後70年も経ってから戦争賛美、戦争推進の言説が大手を振ってまかり通るようになったのは、虚妄を唱えても、その誤りを指摘する証言者たちがほとんど他界してしまったからだ。
 
『野火』は59年の市川昆に続いて、今また塚本晋也によって映画化され公開を控えているが、『軍旗はためく下に』(72年公開)は深作欣二監督、新藤兼人脚本という巨匠タッグでキネマ旬報年間ベスト2位に輝いたにもかかわらず、DVD化されていない。政治状況が表現を脅かしているとしか考えられない。
 
 ただ、これらの文学作品を文学史から抹殺することは最早できないだろう。この世に「読書」という営為が存続する限り、歴史修正主義者の目論見が成功しようはずはない。たとえ戦争体験者がすべて死に絶えようと、たとえ戦争終結から何十年経とうと、「読書」によって戦争と人間の真実にふれることができる。戦争を美化する言論がいくら溢れようと、その虚偽と捏造は遠い過去から既に暴かれている。

 戦争とは何かを知りたければ、戦後生まれがおベンキョーしてつくりあげた作品ではなく、戦争が生々しいものとして感じられた時代に生み出された本をこそ読め。
(左巻き書店店主・赤井 歪)

●左巻き書店とは......ものすごい勢いで左に巻いている店主が、ぬるい戦後民主主義ではなく本物の左翼思想を読者に知らしめたいと本サイト・リテラの片隅に設けた幻の書店である。