この夏、ネトウヨに読ませたい三冊(2)常態化する人肉食い、吹っ飛ぶ倫理

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 わが左巻き書店の、ほんとうの戦争を知るためのブックフェア。前回は、結城昌治『軍旗はためく下に』(中公文庫)での、戦友を殺し屍肉を食ったシーンを紹介したが、戦争中の人肉食に文学的テーマの焦点をあてた作品さえある。それが『野火』だ。

『野火』(新潮文庫)は、作者である大岡昇平がフィリピンでの戦争体験をもとに書いた小説。戦争末期、敗北が必至の状況下で主人公が飢えを抱えて原野を彷徨する様を描いている。

 結核を患っている主人公・田村が分隊長に部隊を逐われるところから話は始まる。

「中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。...病院へ帰れ。...どうでも入れてくんなかったら―死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。」

 しかし、田村は病院が受け入れてくれないことを知っていた。なぜなら「食糧は不足し、軍医と衛生兵は、患者のために受領した糧秣で食い継いでいたからである」。病院前には受け入れを拒否された病人が列をなしていたが「彼等もまたその本隊で『死ね』といわれていた」。

 このほんの冒頭1ページあまりだけで、軍隊の退廃ぶり、兵士の命がいかに軽く扱われているかがわかる。

 結局、田村は部隊から追放され、やはり病院に入ることもならず、行くあてなく原野をさまようこととなる。そして極度の飢餓に苛まれ、偶然出会った将校の死体を食べるか否か葛藤する。文学的にはここで人肉食に踏み込まなかった人間に訪れる宗教性が全編のテーマとなっている。

しかし、戦争の惨酷さはこの後にくるのだ。田村は旧知の兵士と合流することで、猿の肉を食べさせてもらう。後日、日本兵が狙撃されるところを目にして、田村はすべてを知る。
「これが『猿』であった。私はそれを予期していた。」
 その周辺には多くの足首が捨てられていた。
「足首ばかりではなかった。その他人間の肢体のなかで、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。」
 人肉は他者のものだけではない。手榴弾の爆発から逃げる際、「後で、炸裂音が起った。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐ口に入れた。私の肉を私が食べるのは、明らかに私の自由であった」。

 もう、倫理など欠片も吹っ飛んで、戦争の極限状況の中で人肉食が常態化していたことが明瞭に見てとれる。

 これはけして大岡昇平が遭遇した特殊な体験ではない。飢餓の極限状況下における戦場で人肉食が横行していたことは、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督/1987年公開)でも告発されている。この映画が教える戦争の恐ろしさは、人肉食が行われていたということだけではない。そうして戦友の屍肉を食べて生き延びたひとたちが、ごく普通の市民として戦後ひっそりと生活していたことだ。

 藤原彰『餓死した英霊たち』(青木書店)では「この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行為による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である」と言明し、各戦線毎の細かなデータ分析が行われている。大量餓死を招いたのは、軍司令部が兵站の概念を欠いた無能であり、兵士の人命を軽視したからだ。

 戦争推進者たちはいつも、国民を守るためにこそ戦争が必要だと声高に叫んでいる。しかし。これらの文学作品は、戦場に駆り出された国民が人間の尊厳を蹂躙され、消耗品のように扱われながら死に追いやられたことを伝えている。

 国が国民を守ってくれるはずなんてないことがちょっとはわかったか。でも、こんなものじゃまだまだ足りない。明日の第3回では、もっとリアルな戦争の姿を紹介してやろう。
(左巻き書店店主・赤井 歪) 

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