お昼どき=シリア/チグリス川流域の国境の村 アインディワールAin Diwarにて【撮影/安田匡範】

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チュニジア、エジプト、リビアと革命が続く中東。今でも毎日のように、テロや紛争のニュース が絶えません。なぜ中東では革命や政変がこんなに起こるのでしょうか。今回はサダム・フセイン政権崩壊以降のイラクの問題点を、中東研究家の尚子先生がわかりやすく説明します。

 イラクの戦後を解説する後半は、「イラクとシャームのイスラム国」(以後、ISIS)の特徴と、イラクの現状についてお話します。

ISISの最大の特長は際立った残虐性

 ISISの特徴としては、1)アル・カイダですら嫌悪する残虐性、2)イスラム再興をめざした現存の国境線の否定、3)他宗派への非寛容性、が挙げられます。

 1)については、日本人旅行者殺害事件の際に、ネットで殺害の状況を配信したことからも明白です。

 2)の国境線の否定については、名前に「シャーム(第一次世界大戦前の現在のシリア、レバノン、ヨルダンの一部を含む地方の呼び名)」とあるように、第一次世界大戦の戦後処理であるサイクス・ピコ協定に基づく、現在の国境線を変更しようとしています(「中東・イスラム初級講座」第3回参照)。ISISの指導者は6月29日にイスラム全体の指導者「カリフ」を名乗り、イスラム世界の人々に広く支援を呼びかけると同時に、シリアおよびヨルダン国境の町の奪取を目標として攻撃を行なっています。

 3)については、攻撃の標的がユダヤ教徒やキリスト教徒といった異教徒よりもむしろ、侵略者である米軍と手を組んだ(と彼らがみなした)、同じイスラム教のシーア派が中心となっていることが指摘されています。

 モースルなど中部の都市においてISISが支配を確立したと発表した際に、中部のスンニ派住民がイラク国軍ではなく、ISISを支援していたのではないかと報道されました。イラク国軍は現在、シーア派とクルドによって占められており、サッダーム・フセイン政権下で中心的な役割を果たしていたスンニ派は、軍から締め出されているというのが現状です。

 そのため、“ISIS+スンニ派の住民”対“シーア派のイラク軍”という「宗派対立」の図式になっているといわれています。イラクのシーア派については、前回、国家建設の中で富の分配にありつけず、貧困化が進んでいたと説明しました。南部のシーア派地域はもともと綿花栽培を中心とした農村地域でしたが、農地改革が進まず、塩害が深刻であったことから、農地を捨てて首都や都市部に出るものも多かったのです。そのため、都市の貧困層は主としてシーア派であったといわれています。

 ですが、サッダーム・フセイン政権下では、公の場で宗派を問うことはタブーでした。なぜなら、イラクは1980年から8年間にわたってイラン(シーア派)と戦争をしており、宗派のアイデンティティーよりも「イラク人」としてのアイデンティティーを強調しなければならなかったのです。そのため、シーア派だからといって公職や軍から締め出すことはありませんでした。国家建設および戦争遂行の過程で、総人口の6割のシーア派を締め出すことは現実的ではなく、むしろ不可能であったと考えられます。

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