ボスニア国家が流れると、発炎筒が焚かれ花火が打ち上げられた(2014年6月16日サラエボ)     (Photo:©Alt Invest Com)

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 ブラジルワールドカップの熱気もすっかり過去のものになってしまったが、開催期間中、ヨーロッパのいくつかの国で“現地観戦”する機会を得たので、忘れないうちにそのことを書いておきたい。

 6月16日午前0時。ここ数日降り続いていた雨もあがり、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの中心にあるショッピングセンター前は群集で埋め尽くされていた。20万人の犠牲者と人口の半分に迫る200万人もの難民を生み出した内戦を経て、1995年に独立国家となったボスニア・ヘルツェゴビナの代表チームが、この日はじめてワールドカップの舞台に立つのだ。

 広場に据え付けられた巨大なモニタに代表チームが映し出されると、パブリックビューイングに集まったひとたちから大歓声があがり、国家演奏が終わると発炎筒が焚かれ、花火が何発も打ち上げられた。建国20年の若い国にとって、歴史的な瞬間が訪れたのだ。

宗教が同じ容姿、同じ言葉、同じ文化を持つ南スラブ人を隔てる

 ボスニアの内戦を説明するのはものすごく難しい。バルカン半島の複雑な歴史が、いまに至るまでこの地に住むひとびとの運命を翻弄しているからだ。

 ユーゴスラビア解体で始まったボスニア内戦は、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人の“民族紛争”とされているが、彼らはもともと異なる民族ではなく、南スラブ人として同じ容姿、同じ言葉、同じ文化を持っている。

 そんなひとびとを隔てるものは宗教だ。

 ビザンティン帝国の布教によって、ロシアやルーマニア、ブルガリアなどと同様に、旧ヨーゴスラビアの東にあたるセルビアやモンテネグロにギリシア正教が広まった。それに対して西に位置するクロアチアやスロベニアは、イタリアに接していることからローマカトリックを受け入れた。その後、オスマン帝国がビザンティン帝国を滅ぼすと、15世紀にはバルカン半島全体がムスリムの支配下に置かれた。

 ボスニアはクロアチア(西部)とセルビア(東部)に挟まれた険しい山岳地帯で、カトリックや正教の宣教師もほとんど訪れず、ひとびとは素朴なアニミズムを信仰していた。オスマン帝国の統治が行なわれるようになると、住人たちは“国教”であるイスラム教を信仰するようになった。

 オスマン帝国では異教徒の信仰も許されたが、すべての宗教が平等というわけではなかった。ボスニアのムスリムたちは地主層となって、正教徒やカトリック教徒より恵まれた生活を送ることができた。

 ヨーロッパ列強に押されてオスマン帝国がバルカン半島から撤退すると、まずセルビアが独立し、ボスニアはクロアチアなどとともにオーストリア=ハンガリー帝国に併合された。第一次世界大戦でこの帝国も崩壊すると、セルビアを中心に“南スラブ人の国”をつくるという運動が起こった。こうして建国されたのがユーゴスラビア王国だ。

 だが新国家の政治は安定せず、ナチスドイツの支援を受けたクロアチアが独立を宣言し、セルビアもナチスの占領下に置かれてしまう。ファシズム支配を打ち破ったのがパルチザンを率いたチトーで、第二次世界大戦後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国として再統一された。

 旧ユーゴスラビアは民族共和を掲げたが、セルビアとクロアチアのあいだの緊張はずっと続いていた。先進工業地帯でアドリア海沿岸にドブロブニクなどの観光地を持つクロアチアは、セルビア人の政府によって経済的に搾取されていると不満を募らせていた。

 だがボスニアのムスリムは、こうした“民族”の対立とは無縁だった。それは彼らが、自分たちを“民族”とは考えていなかったからだ。

 オスマン帝国の統治では、ボスニアのムスリムは帝国の国民だった。ユーゴスラビアの社会主義政権は宗教のちがいを問題にしなかったから、彼らは「(ムスリムの)ユーゴスラビア人」だった。ところがソ連邦の崩壊と冷戦の終焉でユーゴスラビアという国家が解体しはじめると、彼らは自分たちが何者かを決めなくてはならなくなった。

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