今、またピンク・レディーの歌が街に流れている。その歌は誰もが一瞬にして口ずさめるほど、2人が70年代に巻き起こした旋風は巨大なものだった。それほどの「怪物」でありながら、なぜ、不可解な凋落をたどっていったのか‥‥。76年のデビューから81年春の解散までの5年間、どんな真実があったのか──。

 貫泰夫(ぬきやすお)はピンク・レディーがデビューした76年、証券会社を脱サラして芸能プロダクションを作った。貫が社長で、オーナーは中学の同級生であり「最後の総会屋」と言われた小川薫である。

 貫は芸能プロを始めるにあたり、1人の男と接触している。当時「アクト・ワン」という小さなプロダクションを持っていた相馬一比古で、後にピンク・レディーのプロデューサーとして名をはせる男である。

「相馬の会社には浅田美代子と、無名の子が2人。それに日本テレビの『スター誕生!』でスカウトした2人組の女の子がいて、借金も4000万円ほど抱えていたんだ」

 貫は、デビュー前の2人組をたまたま「スタ誕」で見ていた。決戦大会で最優秀賞に輝いた清水由貴子には多くのスカウトの手が上がったが、その2人組には相馬と、ビクターのディレクター・飯田久彦が指名したのみ。

 それでも貫には清水由貴子よりも印象が強かったこともあり、相馬の借金も含めて“合体”することになる。そして社名を「T&Cミュージック」とした。

 残念ながら浅田美代子は吉田拓郎との結婚でT&Cを辞め、いよいよ“ミー”こと根本美鶴代と“ケイ”こと増田恵子のコンビに社運を賭けることとなる。総合プロデューサーの役割を作詞家の阿久悠が担い、さっそく手腕が発揮されたと貫は言う。

「最初は作曲・筒美京平のはずだったんだ。ところが阿久さんの鶴の一声で都倉俊一に変更になったね」

 阿久と都倉は「スタ誕」の審査員仲間という縁もあるが、山本リンダの「世界千夜一夜シリーズ」や、フィンガー5の「学園恋愛シリーズ」など、歌謡界の新しい試みには欠かせぬパートナーだった。都倉はパンチの効いた作・編曲だけでなく、カクテルの名であった「ピンク・レディー」命名の発案者でもある。

 ただし、レコード会社の反応は冷たかった。土居甫(どいはじめ)の振付けによる「太股パカパカダンス」が「ゲテモノ」と呼ばれ、デビュー曲「ペッパー警部」の初回プレスはわずかに4000枚。

「そもそも8月25日というデビュー日が、新人賞レースを争うには遅すぎるデビューだったよね」

 貫は苦笑したが、デビュー曲は暮れに向けて売上げを伸ばし、76年の日本レコード大賞新人賞の5組にも選出。最終的には60万枚の大ヒットとなった。

 やがてピンク・レディーは、そのファン層を大人から子供へ、男性から女性へとシフトしていく。デビュー当初こそ太股の露わな衣装のせいもあって「11PM」への出演も多かったが、翌77年からは深夜帯よりも明るい時間帯がメインとなった。

 貫の手元には今も、会社の業績を記したメモが残っている。デビューから半年が経った77年2月の決算では4600万円(別表参照)、それが1年後には10倍以上の6億4000万円となり、さらに1年後は18億9000万円もの数字に膨れ上がる。

 ピンク・レディーは、掛け値なしに「金のなる木」となっていった‥‥。