『火曜日の手紙』エレーヌ グレミヨン,Hélène Grémillon 早川書房

 フランス・ミステリー不遇の時代なのである。ドイツや北欧など、英語圏以外からの翻訳は一昔前に比べて格段に賑やかになった。その一方で、フランス語からのミステリー翻訳だけが沈滞したままである。フレッド・ヴァルガスやフランク・ティリエなど、過去に秀作が翻訳されたことがある作家はいくらでもいる。機運が高まればフランス・ミステリー・ブームの到来も夢ではないと思うのだが、どこかの版元で仕掛けてくれないかしらん。

 というわけで今週は、フランス産サスペンスの秀作に光を当てることにする。エレーヌ・グレミヨン『火曜日の手紙』(早川書房)である。ミステリーっぽい売られ方はしていないが、帯にはこっそりと手掛かりが埋め込まれている。たとえばフランス・フィガロ紙の「息をのむほど見事な語り、第一級のサスペンス映画のような興奮」といった書評の抜粋然り、たとえば「謎の手紙に導かれ秘密の真実が現れる」といった帯中央のコピー然り。編集者の「一般文芸の読者をターゲットにしているけど、もちろんミステリーとしてもおもしろいんだよ」という目配せがちらちらと見えてくるではないか。

 まさにその通りで、これはミステリー・ファンこそ読むべき作品なのである。もっと詳しく言うと「伏線が残らず回収されることに快感を覚えたり、物語の表が語られた後で裏をもう一度語られると一味違う満足感があったりするミステリー・ファン」こそ読むべきだ。日本の作品でいうと、多島斗志之『黒百合』(東京創元社)あたりの感じにすごく近い。「泡坂妻夫や連城三紀彦にも一般小説と見せかけて実は」という作品があったっけ、と書いたら、おやおや結構沢山の読者がこっちを向いてくれましたね。では内容を紹介します。

 主人公の〈私〉ことカミーユは、女性の編集者だ。母の葬儀を終え、軽い虚脱状態にある彼女の元に一通の手紙が送られてくる。手紙の中の〈私〉は二歳年下のアニーという女性のことを回想していた。それが第二次世界大戦勃発直前の出来事であることは「ドイツではヒトラーが総統となり、ナチの一党独裁を確立した。そして、ダッハウ強制収容所の建設が始まり、ブレヒトとアインシュタインは逃げるようにドイツを離れた。私は、無邪気にも、自分たちは歴史のうねりにのみこまれないと思いこんでいたのだ」という手紙の結びの一文で明らかである(ヒトラーが国家元首に上り詰めたのは1934年)。

 最初は単なる誤配だろうと思っていたカミーユだが、その後も手紙は火曜日ごとに定期的に届くようになる。アニーと〈私〉の幼少期、1943年10月4日の再会(すでにフランス全土が占領された時期であることに注目されたい。街はすでにドイツ兵によって掌握されていた)、そして幼馴染から聞かされた驚くべきうち明け話。それらを読まされているうちに(編集者の哀しい性で読んでしまうのだ)、カミーユは奇妙な符合を感じ始める。文中で語られている出来事が、自分自身と無関係のものだとは思えないのだ。そして手紙の〈私〉は、カミーユに驚くべき事実をつきつけてくる。

 手紙の中の事実、あるいは作中作で語られた事柄が読み手の現実とリンクしてくる。そうした形で二つの異なる時間が合流する小説はいくらでもある。本書が興味深いのは、時間の流れの中にいくつも技巧が仕掛けられている点である。

 まず手紙の中にも明らかな手品が仕掛けてある。〈私〉は故意にいくつかの事実を語り落としている。〈私〉の立場からすると、無機質な記述をしてしまえない、切実な問題なのだ。この記述の遅延により情報伝達の密度には高低差が生じる。ある時点で、それまで留められていた事実が一気に明かされる瞬間がやってくるのである。そのコントロールにより、読者は感情をたまらなく混乱させられるはずだ。哀しみ、怒り、驚き、そういったものが一気に到来することにより、流れの中で我を失うのである。手紙の読み手であるカミーユも読者と同じ混乱を味わうのだが、さらに彼女だけが知りうる事実が浮上してくる。そのことによって第二波の感情の爆弾が到来するわけである。本書でいうところの「秘密の真実」とは、それ自体が衝撃的なだけではなく、明かされ方までが実に手の込んだものなのだ。この技巧を私は愛した。これは素晴らしいものである。

 本書は2010年に発表されるやたちまち話題となり新人賞を含む5つの文学賞を獲得したという。現在は25ヶ国で翻訳され、さらに読者層を広げつつある。

 願わくば日本でもエレーヌ・グレミヨン旋風が吹き荒れんことを。一人でも多くのミステリー・ファンが本書を手に取ってくれることを、私は心から祈るものである。

(杉江松恋)