『ルポ産ませない社会』(河出書房新社)

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 妊婦の血液を採取し、胎児の染色体や遺伝子を調べる「新型出生前診断」が、いま波紋を広げている。先月6月27日、この1年間で新型出生前診断を受け、胎児の「染色体異常」が確認された妊婦のうち、じつに97%が人工妊娠中絶を選択したと発表されたからだ。

 新型出生前診断が注目を集めている理由には、不妊治療の技術向上により、高齢での出産が増加しているという背景がある。妊娠年齢が上がると、ダウン症候群などの障がいがある子が産まれる確率も上がるためだ。『ルポ産ませない社会』(小林美希/河出書房新社)に記載されている海外の研究例では、「25歳で1352人に1人の確率」であるのに対し、「35歳で385人に1人、40歳で113人に1人」と割合が高まっている。そのため、これまでの羊水検査よりも安全だといわれる新型出生前診断を希望する人が増えているようだ。

 だが、当然ながら出生前診断には批判もある。それは容易に「命の選別」を行っていいのかという生命倫理の問題だ。社会全体で深く議論されるべき大きなテーマだが、現状は"個人の問題"として、妊婦とその家族が「診断を受けるべきか否か」「産むべきか産まないべきか」という重い選択を突きつけられている。

 障がいを抱えた子の命を軽んじていいのか──。じつは80年代にも、こうした議論が起こっている。日本を代表するジャーナリストのひとりである故・斎藤茂男が新聞連載した「生命かがやく日のために」が、その発端だ。

 議論のはじまりは、斎藤に読者である匿名の看護師から寄せられた1通の手紙だった。産まれたばかりのダウン症の赤ちゃんが腸閉塞を合併しており、一刻も早く手術を行わなくてはいけない。しかし、両親の希望で手術ができず、死の危険にさらされている──。この手紙を読んだ斎藤は、看護師が働く病院を突き止め、この赤ちゃんの動向を連載でレポート。弁護士や障がいをもった子どもを育てる親たちに取材しながら命のあり方を世に問うた。この新聞連載が当時、多くの賛否両論を生んだのだ。

 新聞連載に加え追加取材を行った書籍『生命かがやく日のために』(講談社α文庫)によると、当初、この連載に寄せられる投書は「一刻も早くダウン症の赤ちゃんの手術をして、命を助けてあげて!」という趣旨のものだったという。だが、そのうちに風向きが変わり、「障害児は将来、幸せになるとは思えないから、いまのうちに死なせてやるべきだ」「障害児の親以外の第三者がとやかく言うべきじゃない。親が死なせたいと言うのなら、そうさせてやるべきだ」という電話や投書が次々に寄せられた。こうした意見は全体の20%ほどだったというが、それでも斎藤が「少々おじけずいた」と書くように、「けっきょくは"赤ちゃんを殺してしまえ"というに等しい意見」が起こること自体、冷ややかな気持ちになってしまう。

「私たちの社会には、障害を持つ命を抹殺しようとする価値観が、ガン細胞のようにひそかに増殖しはじめているのではないか」。斎藤がこのように書き付けたのは1985年のことだが、その洞察は悲しいことにいま、的中してしまったといえる。

 だが、何も出生前診断で中絶を選択した妊婦を責めたいわけではない。考えなくてはいけないのは、「障がいがあれば堕ろせばいい」と社会が後押しするような空気のほうだ。生むことを選んだ親に対し、「不幸になるとわかっているのに、産むのは親のエゴ」「自己責任で産んだのだから、国や社会に頼るな」という空気すら作られつつある。だいたい"劣等人種は抹殺しろ"という考えは、ナチス・ドイツ時代の優生思想にも繋がる危険なものである。そして、カネのかかる障がい児の出生を避けようとするのは、ただの政策思想でしかない。

 何より、私たちの社会は、障がいがある人とそうではない人が触れあう機会が、ほとんど用意されてはいない。国際的には、障がいのある子どもとない子どもがともに学ぶ「インクルーシブ教育」が進んでいるが、日本においてはまだまだ"隔離"されている状態だ。また、メディアを見ても、アメリカでは『セサミストリート』などの子ども番組や「トイザらス」の広告にダウン症の子どもが出てくるし、人気ドラマ『glee/グリー』にも、チア部のメンバーとしてベッキー・ジャクソンというダウン症の女の子が登場している(ベッキー役を演じるローレン・ポッター自身も、ダウン症をもつ女優である)。片や、日本では、報道やドキュメンタリーを除けば、年に1回の『24時間テレビ』で視聴者の涙を誘うように"かわいそうな人"と演出されて障がいがある人たちが紹介されるだけだ。このような状況で、"障がい=負"というイメージだけを一方的に押しつけ、自分の考えにしてはいないだろうか。

 前出の斎藤は、まるで未来を予見したように、このように述べている。

「「現代の社会では障害をもつ子どもはけっして幸せになれないし、親自身も不幸である」という固定概念に縛られた現状認識が根強くはびこっている状況のなかでは、けっきょくは人間が人間の生命を管理・選別していく巨大な流れに巻きこまれていく可能性は大きいのではないだろうか」
「できるだけムダを省き、より効率的で、論理整合性のある合理化体制をめざす志向に突き動かされて、その流れにさからう異端の存在や、役に立たない弱者や劣者を切り捨てながら、不気味な歯車が回転していく危険を、私たちの社会ははらんでいるようだ」

 斎藤の指摘は、さらに加速度を高めて進行している。合理的でないものは排除しよう。異端は拒絶すればいい──障がい者に対してのみならず、こうした排他的な考え方が社会に蔓延っているのが、現在の日本の姿だ。

 そもそも、ダウン症の子どもが一定数生まれることは生物学的には自然なこと。新型出生前診断を受け、中絶を選んだ妊婦の悲しみも、生むことを選んだ家族の困難も"個人の問題"などではなく、社会が背負うべきものではないのか。ダウン症の子どもが生まれても幸せにはなれない。そんなふうに諦めてしまう世の中をつくりあげているのは、ほかでもない、この社会の貧しい体制にある。
(田岡 尼)