準決勝でドイツに1─7。3位決定戦でオランダに0─3。ブラジルW杯で最も衝撃的だったのは、開催国でありサッカー王国であるブラジルの哀れな姿だった。

 だが「ブラジル」の哀れな姿を見るのは、これが初めてではない。想起するのは2011年12月。舞台は横浜国際と言えば、ピーンと来るだろう。クラブワールドカップ決勝、バルセロナ対サントス戦だ。
 
 結果は0─4。ボール支配率は28対72だった。サントスは何もできなかった。これはクラブの話だが、サントスにはネイマールをはじめ、それなりに優れた代表級が数多くいた。バルサが相手だとはいえ、もう少しやるだろうと思った。
 
 この0─4の敗戦は、サントスのみならず「ブラジル」の敗戦を意味していた。ブラジル国民にとってショッキングな敗れ方だった。サッカー王国ブラジルの看板は、この時点で崩壊していたと僕は思う。
 
 何より酷かったのはサッカーゲームの質だ。3─3─4という超攻撃的な布陣できたバルサに対し、サントスは受けてしまった。4─3─2─1という守備的な布陣で臨み、その結果ボールを一方的に支配された。ピッチに描かれたクリスマスツリー型の布陣を見た瞬間、危ない予感が走った。これでは絶対に勝てないだろうと。
 
 欧州のクラブなら、そうした作戦はまず採らない。その10年前、守備的サッカーがまだ、市民権を得ていた時代ならともかく、それが衰退した時代にあってはなおさらだ。選手以上にラマーリョ監督の采配が、レベルの低いものに見えた。そのブラジル式サッカーは、酷く時代遅れなものに見えた。
 
 ルイス・フェリペ・スコラーリは、ブラジル人監督にあっては、最も欧州の流れを知る監督だ。近年、欧州で成功したただ一人の監督。ブラジルにとって最後の砦と言うべき監督だった。彼が、ブラジル代表監督に就任した瞬間、ブックメーカーが、スペインに代わってブラジルを2014年W杯の本命に推した理由はよく分かった。
 
 だが、2014年W杯でブラジルは大きな屈辱を味わった。最後の砦を持ってしても、崩壊を防ぐことはできなかった。
 
 ルイス・フェリペ・スコラーリのサッカーゲームの戦い方は、普通だった。ピッチにクリスマスツリー型の図が描かれたわけでもなかった。それでもドイツ、オランダに大敗した。その他の試合でも、満足な戦いをする事ができなかった。

 駒不足に陥っていたからだ。
 
 ブラジルに名監督は要らない。名監督は育たないとも言われる。良い駒がいるので、良い監督は必要ないとされてきた。サッカーゲームの戦い方に詳しい戦術家が存在する必要性はなかった。
 
 言い方を変えれば、戦術の遅れを駒の力で補うのがブラジル式だった。駒の力ありきのサッカー。逆に、欧州勢は、それに対抗するためにサッカーゲームの戦い方を磨き、研究を重ねてきた。
 
 もし、本当に駒の力で劣り始めているならブラジルはピンチだ。良い監督が必要不可欠になっているというのに、ブラジルには、世界性に優れた監督は見あたらない。
 
 大会期間中に乗ったタクシーの運転手が、ブラジルの不出来を嘆くので、同乗していた知人が「外国人監督を招いたらどうですか」と水を向けてみた。だが返ってきた答えは「ノー」だった。「まだそこまでの覚悟はできていない」のだそうだ。
 
 サッカー王国としてのプライドが許さないと言わんばかりだった。だとすれば、ブラジルはピンチだ。ドイツは王座を奪還するのに24年掛かったが、ブラジルはそれ以上かかりそうな気配がする。
 
 なぜブラジルに、良い選手は少なくなったのか。その理由を考えるより、優れた監督、世界性の高い監督がいない理由を考える方が早い。今回、ブラジルで得た感触で言えば、ブラジルのサッカー界は、かなり内向きだ。外から何かを吸収しようとする意欲に欠ける。日本のサッカー界と似たところがある。
 
 期間中に書いた原稿でも触れたが、ドイツはそうではなかった。ここ10年間で、他国の良いところを取り入れ、サッカーを変身させた。それが24年ぶりの優勝に繋がった。
 
 他国の良いところを、いかに取り入れるか。サッカー発展のカギはそこにあると言い切っていい。他国、他人のアイディアを拝借する力に優れているか否か。これが決め手になると僕は思っている。同時に、自国のサッカーに欠けているものを探り当てる目も不可欠になる。
 
 とはいえ、日本代表のサッカーだけを見ていても、それは分からない。そうした意味で、32チームが一堂に会すW杯は貴重な場だ。品評会的な側面が確実に存在する。
 
「我々のサッカー」と言うのは構わないが、それがどのような内訳になっているか。影響を受けた先はどこなのか、言葉でキチンと説明できなくてはならない。美人は血が混じった方が生まれやすいと言われるが、サッカーにもそれは大いにあてはまる。
 
「代表監督はそろそろ日本人に任せてもいいのではないか」という声に、賛同できない大きな理由の一つなのである。