苦節32年──世界初のクロマグロ完全養殖を成功させた近畿大学水産研究所の「海を耕す」という発想はどこから生まれたのだろうか?  作家の山下柚実氏が近大関係者を取材して得たこれまでの取り組みや成果を報告する。

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「すみません、今日はもうランチが売り切れです」

 残念そうに目を見合わせる若いカップル。午前11時の開店前だというのに、すでに店の前に150人を超える行列ができている。JR大阪駅グランフロント大阪の6階、レストラン「近畿大学水産研究所」。一周年を迎えた今も行列は途切れない。

 予約は1か月先まで満杯。開業1年で12万5000人が押しかけ、売り上げは当初計画の1.5倍を達成した。文句のつけようがない、堂々たるヒット店の風景。その牽引役が、世界で初めて完全養殖に成功した「近大マグロ」だ。一度は食べてみたいと、次から次に客が押し寄せる。

「反響に驚きました。供給可能な量を大きく超えているため、毎日売り切れてしまうのが申し訳なくて」と近大関連会社経営支援部の石原克人氏(31)は頭を下げる。

「私たちも養殖魚に対する考えが少し甘かったのかもしれません。まさかここまで受け入れて下さるとは……」

 大阪店の大盛況に続き、2013年12月、2号店を東京・銀座に出した。店舗の経営を担う、近大発ベンチャー企業の株式会社アーマリン近大は、飲食店だけではなく、人工孵化した稚魚や成魚を販売したり商社と技術提携したりと多角的に事業展開をしてきた結果、今や年間30億円近く売り上げる勢いだ。

 レストランは間違いなく、養殖「クロマグロ」がアイキャッチになっている。ところが担当者に話を聞くと、意外な言葉が出てきた。「そもそもはマグロだけがテーマじゃなかったんです。養殖魚の魅力を表現する場が欲しい、というのが原点でした」と同大水産養殖種苗センター大島事業場長の岡田貴彦氏(57)。実はこのレストランで出される魚はすべて、近大が育てた養殖魚。マグロの他にもマダイ、ヒラメ、シマアジ、クエ……なんと14種類。

「養殖魚はまずい、薬漬け、といった過去に染み着いたマイナスイメージを一から転換したい。でも、『養殖魚はおいしくなりました』といくら口で説明しても伝わらない。実際に食べていただき、舌でその美味さを実感していただくのが一番ですので」(岡田氏)

 様々な魚が提供されているのに、マグロばかりに話題が集中するのはもちろん理由がある。天然のクロマグロは乱獲され個体が激減し、危機が叫ばれている。水産庁は2015年以降、未成魚の漁獲量を大幅に規制し基準に比べ5割削減と定めたばかり。世界一のマグロ消費国・日本で、クロマグロを食べ続けるには?

「完全養殖」しか道はない。しかし、クロマグロの養殖は技術的に非常に難しく、誰も成しえない「夢」のまた「夢」だった。

「マグロはあまりにもナイーブで独特な魚です。ちょっとの刺激でもパニックを起こし、生け簀の壁に激突したり共食いしたり。皮膚がとても薄く傷つきやすいので病気にもかかりやすい。いまだに外観からオスメスが判断つかないなど、謎も多い。私たちはマグロの卵を孵化し成魚に育て産卵させるという完全養殖を実現しました。が、今でも成魚に育つ割合はたった5%しかありません」と岡田氏。それでも近大が世界初の完全養殖に成功した秘訣とは?

「水産研究所の歴史にあるでしょう」

 今から遡ること65年。戦後食糧難の時代、近大初代総長の世耕弘一は「海を耕せ」と提唱し、和歌山県に水産研究所を設立。それ以後、次々に世界最先端の養殖ビジネスを切り拓いてきたのだ。

「例えば世界中で行なわれている小割式という生け簀の養殖法もここで開発されました。ブリ、ハマチ、ヒラメと養殖技術を確立して、次はクロマグロと言われたのが1970年代。しかしそれからが困難の連続で、長い時間がかかってしまいました」

 マグロに適した餌の配合、生け簀の形態や素材。全てがわからないことだらけ。11年間、産卵が止まった時期も。心が折れそうなスタッフ。しかし、大学総長は「生き物とはそういうもの」とマグロ研究を切り捨てなかった。失敗しても立ち上がる情熱のもと、2002年、いよいよ技術を駆使してクロマグロの完全養殖に成功。実に、「苦節32年」の物語だった。さらに改良を重ね、やっと今の大行列にたどり着く。

「でも私たちの役割は、『魚を売って儲けること』じゃないんです」と岡田氏はまた意外なことを口にした。 「培った技術で養殖業者にもっと稚魚をたくさん供給して、養殖産業や魚食文化を盛り上げたい。誰か一人が勝つのではなく、魚に関わるみんなが笑えるようにしたい」

※SAPIO2014年8月号