スイスの大手製薬会社ノバルティスファーマは、同社の社員が降圧薬のヒット商品バルサルタン(商品名ディオバン)の臨床研究データの捏造・改竄に関与していたとして、厚労省から薬事法違反で刑事告発された。またアルツハイマー病の治療法確立を目指す国家プロジェクト「J-ADNI」は、国や医薬品業界から9億円強の研究助成金を受け取りながら6年かけて論文の1本も発表できず、プロジェクトを主導していた東大教授がデータ改竄に手を染めていたとして関係者から内部告発されている。

 前回、「エイズの原因はHIVウイルスではない」という似非科学がアメリカや南アフリカで広まっていることを書いたが、医学や製薬会社のこうしたいかがわしさが陰謀史観の信憑性を高めていることは間違いない。

[参考記事]
●「エイズの原因はHIVウィルスではない」という似非科学はいかに生まれ、不幸を招いたのか

 なぜこのようなことが起こるのかというと、近代医学があまりにも成功しすぎたからだ。

 ワクチンや抗生物質の発見は医療を飛躍的に進歩させ、人類はこれまで手の施しようのなかった多くの病気を克服した。しかしその結果、医学は治療可能な病気のほとんどをカバーしてしまい、残っているのはがんやエイズ、精神障害など原理的に治療が不可能か、きわめて困難なものばかりだ。製薬事業において、ワクチンや抗生物質に匹敵するようなイノベーションはもはやありえない(たぶん)。

 だが薬の特許には期限があり、それが切れたものは他の製薬会社が同じ成分の薬を製造・販売できる。これが後発医薬品(ジェネリック医薬品)で、ノバルティスのような研究開発型の大手製薬会社は常に新製品を市場に投入していかないと利益を維持できないのだ。

 このようにして製薬会社は、開発できない新薬を無理矢理開発するという歪んだインセンティブを持つようになる。こうした弊害がきわめて大きいのが精神病(心の病)の治療薬だ。ここでは精神医学の実態を取材したアメリカ人ジャーナリスト、イーサン・ウォッターズの『クレイジー・ライク・アメリカ』(紀伊国屋書店)に拠りながら、なぜ日本でうつ病が急増したのかを見ていこう。

日本の“うつ病の壁”に挑戦する

『クレイジー・ライク・アメリカ』の原題は“Crazy Like US”で、“US”は「私たち」と「アメリカ」をかけている。著者のウォッターズは、アメリカ発の心の病が世界に輸出され、「精神病のグローバリゼーション」が起きていると述べる。

 この本で取り上げられるのは、香港の拒食症、スリランカのPTSD、ザンジバルの統合失調症、日本のうつ病の4つの心の病だ。

 2000年秋、カナダ、モントリオールのマギル大学で比較文化社会精神医学を研究するローレンス・カーマイヤーは、「抑うつと不安に関する国際的合意グループ」という団体から、京都とバリ島で行なわれる会議の案内を受けた。全額主催者負担で、航空券は1万ドルもするファーストクラス、ホテルは宮殿のようなスイートルームでバスタブには薔薇の花が浮かんでいた。会議の主催者は大手製薬メーカー、グラクソ・スミスクライン(GSK)で、日本で抗うつ剤SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)パキシルを大々的に売り出そうとしていた。

 SSRIは従来のTCA(三環系抗うつ剤)をひな型につくられた新薬の一群で、アメリカでは1980年代後半にイーライリリー社がプロザック(一般名フルオキセチン)の商品名で売り出して大ヒットさせた。だがイーライリリーは1990年代初頭、日本への進出を断念する。日本で新薬の承認を得るためには、日本人だけを対象とした大規模な臨床試験のやり直しが必要になる。それだけの年月とコストをかけても、日本にSSRIの市場が生まれる確信が持てなかったのだ。イーライリリーの幹部は、「日本人のうつ病に対する態度はきわめて否定的だ」と考えた。

 それに対してGSKは、日本の“うつ病の壁”に挑戦することを決断し、1999年にパキシルを売り出す許可を得た。だがGSKが莫大な販促費を投じて京都に世界中の精神科医や研究者を集めたのは、新薬の宣伝のためではなかった。

 カートマイヤーはそこで、比較文化社会精神医学の立場から、統合失調症やうつ病などの精神病は文化によって症状の現われ方が異なることを発表した。

 カートマイヤーによれば、アメリカにおけるうつ病の概念こそが、世界的にみて特異な特徴を持っている。アメリカ人は赤の他人に感情をオープンに表現したがり、精神的苦悩をヘルスケアの問題とみなす。それに対して他の文化圏では、こころの苦しみは社会的・倫理的な意味を持ち、共同体の長老や地元の宗教指導者に救済を求める。自分が所属する社会の輪の外にいる医者や専門家に助けてもらおうという考えは意味をなさない。

 カートマイヤーは「人間の苦しみに関する文化の多様性を尊重し、守るべきだ」という警告を述べたのだが、GSKはその発表に満足したようだった。後になって彼は、自分の発表がまったく別の受け止められ方をしたのかもしれないと気づいた。うつ病をめぐる文化的な考え方は、時代の影響を受けて移り変わるというように。

 GSKはパキシル販売のために、日本のうつ病の概念を変えようとしていたのだ。

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