ハマ水車=シリア:Hama【撮影/安田匡範】

写真拡大

チュニジア、エジプト、リビアと革命が続く中東。今でも毎日のように、テロや紛争のニュース が絶えません。なぜ中東では革命や政変がこんなに起こるのでしょうか。民衆による抵抗運動が内戦にまで発展してしまったシリアは、エジプトやチュニジアとは何が違うのか。中東研究家の尚子先生がわかりやすく説明します。

 シリアもエジプトやチュニジアのように、「アラブの春」と呼ばれる民衆による抵抗運動が発生した国の一つですが、エジプトやチュニジアとは異なり、抵抗運動が内戦にまで発展してしまいました。なぜ、そして、どのようにして内戦へと発展したのでしょうか? 今回は内戦へと発展した経緯を振りかえり、シリア政権や抵抗運動の特徴を踏まえることによって、内戦が解決しない理由を探ってみたいと思います。

民衆の抵抗運動はなぜ「内戦」に発展したのか

 シリアにおける抵抗運動は2011年3月に始まりました。エジプトやチュニジアのように、シリアにおいても当初は、フェイスブックなどを利用した若者による抗議デモが中心でした。それはアサド大統領に退陣を求めるというより、むしろ、政治・経済の改革や汚職の追放などを求める趣旨のデモでした。

 これに対して、アサド政権側も初期の段階では、内閣を総辞職させるなど一連の経済・政治改革を行なって、デモの沈静化を図っていました。ところが、デモが収束しないまま1カ月を過ぎる頃から、しだいにデモを弾圧するようになっていきました。抵抗運動側もデモ発生から2カ月後の5月には、アサド政権の打倒を叫ぶようになり、暴力を行使するようになっていきます。

 チュニジアやリビアなど、早々と「アラブの春」を終わらせた国からの反政府活動家(戦闘員)が流入し、戦闘はさらに激化していきました。1年後の2012年の春頃から、「内戦」という言葉が各国のメディアで使われ始めました。その後、戦闘に参加している人々に変化が生じたにもかかわらず、「内戦」という言葉が同じように使われ続けています。

 エジプトやチュニジアでは、民衆による抗議デモの開始から、政権が崩壊するまでの期間はわずか1カ月でした。このスピード崩壊の背景には、軍が大統領を見限るという両国で共通した展開がありました。軍が為政者を見限ったからこそ、スピード崩壊が可能になったといっても過言ではないでしょう。

 ところが、シリアでは政権側が抵抗運動を徹底的に弾圧しても、軍は大統領を見限らなかったのです。これがエジプトやチュニジアと決定的に異なっている点です。抵抗運動開始から3年が経過し、16万人ともいわれる犠牲者を出しながらも、軍が現在でもアサド大統領から離れていないということは、シリア情勢を分析する際のひじょうに重要なポイントです。

続きはこちら(ダイヤモンド・オンラインへの会員登録が必要な場合があります)