ザックジャパン総括(1)メンバーの硬直化と3-4-3の誤算

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 5大会連続5度目の出場となったブラジルW杯は、1分2敗の勝ち点1で2大会ぶりのグループリーグ敗退に終わった。2010年8月、日本代表史上初のイタリア人指揮官として就任したアルベルト・ザッケローニ監督の下、この4年間でアジア杯、東アジア杯のタイトルを獲得し、W杯アジア予選も世界最速で突破した。しかし、コンフェデレーションズ杯は3戦全敗に終わり、W杯本大会でも1勝も挙げることはできなかった。遠かった世界での1勝。日本代表の敗因はどこにあったのか。2018年のロシアW杯に向けた課題はどこにあるのか。全4回に分けて総括する。

アジア杯優勝が招いた“弊害”

 ザックジャパンのベースが構築されたのは、2011年1月にカタールで開催されたアジア杯だ。ケガ人や出場停止などで試合ごとにメンバーは入れ替わったが、中心選手たちはそのままブラジルW杯まで残った。

 GK川島永嗣、DF内田篤人、DF吉田麻也、DF今野泰幸、DF長友佑都という守備陣は4年間、継続された。DF森重真人の台頭もあったが、アジア杯でレギュラーを務めた5人がブラジルW杯でもギリシャ戦とコロンビア戦の2試合にフル出場している。

 2列目の3人を見ると、トップ下のFW本田圭佑、左サイドハーフのFW香川真司は当時から不動の存在。アジア杯当初はMF松井大輔がレギュラーを務めていた右サイドハーフも、松井の負傷離脱後はFW岡崎慎司がレギュラーとなり、W杯までそのポジションを守り続けた。

 一方、アジア杯で1トップを務めたのはFW前田遼一で、全6試合に先発していた。MF長谷部誠とMF遠藤保仁のダブルボランチもMF山口蛍が牙城を崩し、コートジボワール戦とギリシャ戦に先発。長谷部はキャプテンとして3試合すべてに先発したが、遠藤は途中出場2試合にとどまった。

 つまり1トップとボランチの一人を除く9人は、2011年1月のアジア杯と2014年6月のブラジルW杯で代わっていない。カタールの地でさまざまな逆境を跳ね返し、総力戦で2大会ぶり4度目のアジア制覇を達成した“成功体験”が、逆にメンバーの硬直化を招いた。

 チームの熟成という意味では良かっただろうが、チーム内の競争、主力選手の危機感という面では物足りなさもあった。4年間を通して新戦力の発掘やテストは少なく、親善試合でニューフェイスが招集されても試合では起用されず、そのまま代表から遠ざかるというケースも目立った。

遅かった新戦力の融合

 唯一の例外と言えるのが、国内組で臨んだ昨年7月の東アジア杯だった。代表候補合宿を除けば、FW柿谷曜一朗、FW齋藤学、MF青山敏弘、山口ら10人がA代表に初選出され、FW大迫勇也と森重もザックジャパン初招集。上記の6人はそのままW杯メンバー23人に名を連ねている。

 山口と大迫はコートジボワール戦とギリシャ戦の2試合に先発。コロンビア戦も途中出場した山口は全3試合に出場した。森重はコートジボワール戦、青山はコロンビア戦に先発。柿谷はコートジボワール戦とコロンビア戦の2試合に途中出場した。齋藤に出番はなかったが、わずか1年前に初めてザックジャパンに呼ばれた選手たちが確かな戦力となっていた。

 だからこそ、もっと早く代表チームに呼んでおければ、という思いがよぎる。もしも昨年3月26日のヨルダン戦でW杯出場を決めていれば、状況は変わっていただろうか。引き分けでもW杯出場が決まる敵地での一戦は1-2の敗戦。この結果、W杯出場は6月4日のオーストラリア戦まで持ち越しとなった。“たられば”は禁物だが、ヨルダン戦の敗戦はさまざまな意味でその後に重く響いた。

 ホームでW杯出場を決めたオーストラリア戦後は、カタールのドーハで行われた6月11日のイラク戦、そしてコンフェデレーションズ杯と連戦が続いた。ドーハから直接、ブラジル入りするというスケジュールでは、新戦力を呼ぶタイミングもなかった。

 たとえオーストラリア戦以降が消化試合だったとしても、ザッケローニ監督がこの時期に新戦力の招集に踏み切っていたかどうかは分からない。しかし、結果的に東アジア杯組はその後、11試合の国際Aマッチを戦ったが、そのすべてが親善試合。日本代表として国際大会や真剣勝負の場を経験することができないまま、W杯本番に臨んだ。

 特に1トップのエースとして期待された柿谷は大会前から過剰なプレッシャーに苦しんでいた。報道陣の前でも落ち着かない姿を見せるなど、明らかに様子がいつもと違った。個人の性格という部分もあるだろうが、持っている力を出し切れない選手が多かったことには、国際舞台の経験不足も影響していたはずだ。

生かせなかったコンフェデ杯の教訓

 そもそも、自分たちのサッカーで真っ向勝負を挑み、3戦全敗に終わったコンフェデレーションズ杯の経験を本当にW杯で生かせたのだろうか。初戦で相手を過剰にリスペクトし、自分たちのサッカーを出せないままに終わったのは、コンフェデレーションズ杯のブラジル戦も、ブラジルW杯のコートジボワール戦も一緒だった。相手が数的不利になっても勝ち切れなかったギリシャ戦。コートジボワール戦もコロンビア戦も、相手がエースを投入してきた勝負どころで確実に失点した。

 本田はコンフェデレーションズ杯後、「僕らは練習でやったことを100%出そうとしている。でも、勝ち方が分からない。あれだけ圧倒しても、向こうが勝つ。点が取れない。そこが『格』」と、チームの「格」に違いがあったと指摘した。香川は「日本らしくしっかり負けた。勝ち切れなかった」と自嘲気味に言い、内田は「日本には勝ち癖が必要」と振り返った。いずれも、W杯後に聞いたコメントだとしても違和感がない。課題は1年前と何も変わっていなかった。

 コンフェデレーションズ杯のイタリア戦で見せたパフォーマンスが、ある意味で日本の方向性を決定づけた。3-4という壮絶な打ち合いを演じ、試合内容では日本が上回っていた。あとは勝ち切る勝負強さを付けられれば……。攻撃面でつかんだ手応えが、1点取られても2点取るサッカーへの流れに拍車をかけた。その方向性自体は間違っていなくても、攻撃面にばかりフォーカスした結果、3試合で9失点した守備面に目をつむってしまった。

3-4-3という“誤算”

 この4年間を振り返るうえで、3-4-3というキーワードを忘れることはできない。ザックジャパンで初めて3-4-3を実戦に導入したのは、2011年3月29日に長居スタジアムで行われたチャリティーマッチだった。合宿でも3-4-3の戦術確認に長時間を割き、同年6月のキリン杯をはじめ、親善試合でテストを続けた。

 公式戦でも、2011年11月15日のW杯アジア3次予選・北朝鮮戦ではリードを許してからのラスト28分間を3-4-3で戦った。昨年6月22日のコンフェデレーションズ杯・メキシコ戦でも、ビハインドの状況だった後半20分から32分まで3-4-3にシステムを変更した。しかし、指揮官の“伝家の宝刀”が結果に結びつくことはなかった。昨年10月15日のベラルーシ戦。1点を追う後半6分から40分までの34分間、3-4-3でプレーしたのを最後に、ザックジャパンで3-4-3を見る機会はなくなった。

 コートジボワール戦を4日後に控えた6月10日、ベースキャンプ地のイトゥで記者会見を行ったザッケローニ監督は「3-4-3を完成させ、もう一つの戦術的オプションを持つには時間が足りなかった」と率直に語った。点を取りたい状況での攻撃的なオプションとして、「試合の中で顔を変えるため」「2つのシステムを自在に操れるように精度を高めていきたい」と繰り返し語り、3-4-3の完成に並々ならぬ意欲を見せてきた指揮官にとって断腸の思いだっただろう。

 ザッケローニ監督にとって、戦術的な誤算はここにあった。コートジボワール戦とギリシャ戦では試合終盤にパワープレーを見せたが、どうしても点が欲しい状況で、自ら「難しいシステム」と常々語ってきた3-4-3を未完成のまま選手に無理強いすることはできなかった。パワープレーであれば付け焼き刃でも何とかなると判断したのだろうが、結果的にそれが選手の迷いを助長したのだとすれば、皮肉以外の何物でもなかった。

(取材・文 西山紘平)