小宮良之のブラジル蹴球紀行(9)

 6月24日、クイアバ。日本人らしいサッカー、とはなんなのだろうか。

 アルベルト・ザッケローニ監督が率いる代表は過去4年間近く、一つの理想の下に戦ってきた。

「日本人の特長はスピード、テクニック、そして組織力。できるだけ敵陣でボールを回し、退いて守るのではなくて、攻め勝つ」

 それはおそらく正しい見識なのだろう。今回の日本代表は、まさにその見地に立ってチーム作りがされていた。攻撃的コンビネーションには刮目(かつもく)すべきものがあった。

 しかし結果的に、それ以外の特長がある選手の招集は見送られ、一つのスタイルだけが正しいとされた。はたして、それは適切だったのか。

 これは現場で取材している人間の感覚だが、ブラジルW杯で繰り広げられているプレイは過酷である。

 ボールを巡る攻防は90分間を通じて激しく、まずはそのファイトで上回れなければ話にならない。例えばくさびに対する後ろからのチャージは一切の遠慮がなく、反則まがいのフィジカルコンタクトがある。例えばセットプレイではファーポストでマークをはねのけ、単純に高く飛び豪快にボールを叩いてゴールを狙ってくる。国を背負った選手は必死で、捨て身。敵ゴールに近づくごとに、高いプレイ強度が求められる。

 言い換えれば、インテンシティ(強度、激しさ)がなければ、スピードも、テクニックも、組織力でさえも試合の中では無意味だ。日本らしさを出すにも、プレイインテンシティが条件だった。早い話が、その強さ、激しさが足りない選手、もしくはそれに堪えられない選手は、たとえ日本人らしい選手であっても、チームの戦闘力を下げてしまう。

 2010年南アフリカW杯の岡田武史監督は、それが分かっていたからこそ、アンカーを置いた守備的布陣を組んだのだろう。

「ボールを回して勝つ」

 その題目は美しい。しかし、そうして人材を絞れるほどに日本はまだ強くはなかった。

 例えばフォルタレーザで行なわれたドイツ対ガーナ戦。どちらもインテンシティで負けていない。重心の強い当たりを食らわせ、長い足でぎりぎりのタックルを見舞う。その上で彼らは自分たちの持ち味を出し、両者は引き分けた。おまけに終了間際のFKでは二人の選手が交錯し、一人は顔から流血し、もう一人も痛みで肩を動かせず倒れたままだった。

 日本はコロンビアを相手に攻めていた。しかし勝負を左右する場面では、優位に立つことができなかった。ハイクロスは簡単にはじき返され、カウンターを何度も受けた。ディフェンダーは1対1で置き去りにされ、ついていくのもやっとだった。

「日本がフィジカルを生かした戦いを挑んでくるのは分かっていたから、それをいなせば良かった」

 これはコロンビア選手の弁である。大人と子供だった。

 自分たちのスタイル。それは、戦い終わった後に周りの人が論じるべきことではないのか。

 日本代表が日本らしさ、を追求するのは当然のことだ。しかしメンバー選考の時点から偏ってしまったら、歪みや脆さを孕(はら)む。相手のストロングを消せないチーム、相手を嫌がらせられないチームは生き残れない。

 誤解を恐れずに言えば、パスゲームに溺れるべきではない。サッカーはゴール前で一気にプレイ強度が高まる。真剣で斬り結ぶような緊張感において、ストライカーは決闘に怯まず、相手を仕留められる慈悲なき決定力が必要だし、ディフェンダーは相手の死に物狂いの侵入を退けるだけの、単純なパワーが求められる。

「W杯優勝」。大言壮語は結構だが、なにかが少しだけ、決定的にずれていた、と思う。

 インテンシティ。それはザッケローニが一番口にしていた言葉の一つだったが、今はそれが何を意味していたのか......分かりそうでさっぱり分からない。

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki