今週はこれを読め! SF編

〈P〉はペプシのPだ。ソヴィエト連邦がはじめて採用したアメリカ・ブランドがペプシである。ソ連のイデオローグたちは真理はひとつしかないと考えており、ペプシと決めればコーラはペプシ一択なのだ。親たちがブレジネフをこぞって支持したように、その子らはペプシを愛飲した。彼らにとってペプシは象徴だった。享楽的な生活の。勝手気ままの。平等とか不平等とかいちいち考えずに消費に耽る社会の。この物語の主人公ヴァヴィレン・タタールスキィも〈P〉の世代だ。

 彼が大学を卒業し社会へ出るタイミングで、ソ連が崩壊する。しかし、ペプシの楽園は到来しない。旧体制からアメリカ的資本主義へのシフトがもたらしたのは、ブランドとメディアの狂騒であり、それを煽る黒PR(ブラック・パブリック・リレーションズ)である。かつて文学の道を志したタタールスキィは、いま広告業界に身を置き、白けた気分でジャーナリズム(新聞・雑誌)を動かす裏金について考える。「金を出さなければならなかったのは、〈マキシム〉と比較されたいレストラン経営者ばかりか、マルケスと比較されたい作家たちもそうで、そのため文芸批評とレストラン批評との境界線はますます薄まり、仮のものとなっていた」。なんて痛烈!

 タタールスキィは広告業界で転職を繰りかえすが、それはジョブ・ホッピングなどという前向きな姿勢ではなく、浮き草稼業のなりゆきであって、あとから振り返れば運命の悪戯に翻弄されていたとしか見えない。ビジネスとしては立身出世だが、精神的にはメディアの暗部への潜没だ。彼のキャリアの頂点は「養蜂研究所」と呼ばれる機関で、どうも金融業界と結びついているらしい。

 研究所では三次元モデルによるロシア議会のヴァーチャル化がおこなわれている。精密につくった映像をテレビに流せば、民衆は本物だと思いこむ。生身の議員などもう必要ない。このプロジェクトの補完として、特殊部隊〈人民の意志〉も地道な活動をしている。一介の市民のふりで酒場などに行き、「このまえ議員の○○を見かけたぜ」などと触れまわるのだ。

 業界の垢にまみれ、すれっからしになっていたタタールスキィも、さすがにヴァーチャル議会には呆れて「恐ろしい規模の法螺吹きだな」と言うのだが、同僚は「それを言っちゃおしめぇよ」と悪びれもしない。最初は躊躇していたタタールスキィだが、結局ずぶずぶと荷担していく。

 デジタル・クラウドなどのヴァーチャル技術のディテールと、メディアが本質的に備えている虚偽性の感覚が、『ジェネレーション〈P〉』のSFらしさだ。かつて筒井康隆は『48億の妄想』で疑似イベントの暴走を描いたが、その現代版と言ってよい。メディアによるコントロールで秀逸にして悪辣なのは、テレビ視聴者がCMを飛ばそうとおこなうザッピングすら仕掛けということだ。それによって視聴者自身が遠隔操作されるテレビ番組へと進化する。ホモ・サピエンスならぬホモ・ザピエンスの誕生だ。

 しかし、ペレーヴィンがほんとうに凄いのはその先だ。ジャンルSFが備えている文明批判のまなざしは、視点主体の健全性が担保されていた。そこに描かれた世界がいくら瘋癲でも、作品の作者と読者は冷静である。ペレーヴィンはその足場さえ、あっさりと崩しかねない。アブない。ヤバい。

 疑似イベントは現代文明の宿痾だが、「養蜂研究所」の起源はそれより遙かに昔の古代バビロニアの秘密結社にまで遡る。おそらく世界を操っている中心的黒幕などはおらず、結社のネットワークが自律的にメディアを動かしてしまう。ネットワークの末端は自分が結社に関係していると知るよしもなく、組みこまれている。これはトマス・ピンチョンが繰りかえし描いた世界に近い。

 ペレーヴィンはこの世界に神秘的な回路も接続させてしまう。タタールスキィはウィジャボードでチェ・ゲバラの霊から助言を得る。また、タタールスキィは物語がはじまってすぐに幻覚キノコを服用しており、その影響がところどころで顕在化する。そして、物語終盤では幻覚キノコをくれた友人を再訪している。タタールスキィ自身はたまたま近くまで来たから寄ったと言うが、ずっと物語を追ってきた読者はぐるりと一周して元へ戻ったかのような印象も受ける。

 もちろん、すべてタタールスキィの幻覚だったなんて単純なオチはつかない。そもそもメディアの虚偽も世界の欲望も個人の幻覚も、本質的な差などあるのか。

(牧眞司)



『ジェネレーション〈P〉』
 著者:ヴィクトル・オレーゴヴィチ ペレーヴィン
 出版社:河出書房新社
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