ブラジルの光と影を感じさせる、あまりにもレアな大名曲
 6月13日、開催国ブラジルとクロアチアの一戦で開幕するFIFAワールドカップ。

 サッカー王国での開催とあって国民が一体となって盛り上がりを見せているかと思いきや、どうやらそうでもない様子。「ワールドカップよりも福祉の充実を」と訴えるデモが各地で発生したり、市営地下鉄の組合員が賃上げを要求してストを起こしたりといったニュースが連日のように伝えられ、何やら不穏な空気が漂います。

 スタジアムや合宿地の施設はきちんと出来上がっているのでしょうか。そちらも気になるところです。

◆NHKのドキュメンタリーで、その曲に出会った

 いずれにせよ、今年のワールドカップと再来年のリオ五輪をもってブラジルの経済成長にひとつの区切りがつけられることになるのでしょうか。その繁栄が、地方から出稼ぎに来た無数の労働者によって支えられてきたことは言うまでもありません。

 2010年にNHKのBSハイビジョン(当時)で放映された『60万人の帰省ラッシュ〜ブラジル・長距離バスターミナル』は、クリスマスを故郷で過ごすためにサンパウロの巨大バスターミナルに集う人々を追った秀逸なドキュメンタリー番組でした。(注・来たる6月10日火曜、深夜25:15からBSプレミアムで再放送されます)。

「チエテ」と呼ばれるターミナルでは、出稼ぎに来たまま連絡が取れなくなってしまった夫を探す妻や、久々の再会に涙する姉妹。さらには夫婦そろって帰郷するお金がないために、とどまってもうひと働きしなければならなくなった男女など、まさに悲喜こもごものカオスが至る所に点在している。

 しかしバスのチケットを買えるだけでもまだ幸せなのかもしれません。番組では出稼ぎに来たものの仕事が見つからず、ファベーラと呼ばれるスラムでの独り暮らしを余儀なくされた男性の姿も捉えており、繁栄の光の色濃さに比例するように強く影が差す実状もすくい取っていました。

 と、ここまではウェルメイドなドキュメンタリーとしてはありがちな展開なのですが、NHKはエンディングを極上の音楽とともに仕上げることで、この番組を忘れがたい名作にしてしまったのです。

◆マリア・ヒタの「Estrela,Estrela」

 最後は笑顔やうれし涙の人々のハイライトでまとめられるその背後で、ゆったりとしたまろやかな和音につぶやくような高音の組み合わせが心地よいピアノの音色が聴こえてくる。その前奏に続いて、ハスキーでありながらも柔和な粘り気を帯びた女性のボーカルがゆりかごのように優しいメロディを適正な音量で歌いだす。経済発展を下支えしてきた膨大な倦怠をただただ癒すように、穏やかな諦めに満ちた歌……。

 時間にしてわずか数十秒。これはとんでもない名曲であり、この歌い手が計り知れない才能の持ち主であることは間違いない。けれどもそれが恐らくはポルトガル語の歌であろうこと以外に何の手がかりもない。

 放送終了後、すぐにNHKに問い合わせのメールを出したことを覚えています。そして担当の方から届いた丁寧な返信に感激しつつ、その驚異的な選曲力に愕然としたことも思い出します。

<このたびはお問い合わせいただき、ありがとうございました。
おたずねの楽曲はマリア・ヒタ(Maria Rita)の「Estrela,Estrela」という曲でデビューアルバムの初回限定盤ボーナストラックとして収録されています。
ただし現在では極めて入手困難であると思われます。>

 だいたいこんな文面だったでしょうか。

⇒【YouTube】Maria Rita‐“Estrela,Estrela”http://youtu.be/I4rXFD0GKho

 曲名が判明したことの嬉しさともはやそれを手に入れることのできない落胆とが交錯する中、さっそくマリア・ヒタのデビューアルバム(通常盤)をアマゾンでポチっと。ミルトン・ナシメントの「Encontros E Despedidas」を嵐のようなストリングスとともに歌い切った見事なカバーや、ディアンジェロを彷彿とさせるヒップホップソウル風の「Menininha Do Porto」といった楽曲が特に素晴らしい傑作でした。

⇒【YouTube】Maria Rita‐Encontros E Despedidashttp://youtu.be/oJPDJUOErlo

 しかしそこに「Estrela,Estrela」がないことがどうしても納得いかない。なぜこんな名曲をボーナストラックとして扱ったのか。そして入手困難だと分かっていながら、なぜエンドロールで使ったのか。

 その後「Estrela,Estrela」がヴィトール・ハミルというソングライターによる曲であることが分かりました。彼の歌と演奏によるその曲が、今でもきちんと流通していることも分かりました。だったらどうしてマリア・ヒタバージョンがないのか……。

⇒【YouTube】Vitor Ramil canta ‘Estrela,Estrela’http://youtu.be/F2dK50up8DI

 もちろん今となってはYouTubeでいくらでも検索することができますし、現にマリア・ヒタによるこの曲もアップされているのでいつでも聴けます。大抵の曲はそうして満足することができる。けれどもどうしても手元に形として置いておきたいほどに素晴らしい曲に出会ってしまったのに、それがほとんど廃盤同然の状態であったときには手の打ちようがない。

『60万人の帰省ラッシュ〜ブラジル・長距離バスターミナル』を制作した方は、罪な選曲をしてくれたものです。本当にありがたくも腹立たしい。

<TEXT/音楽批評・石黒隆之 PHOTO/Aguina>