今週はこれを読め! SF編

 キジ・ジョンスンは米国SFの注目株。1960年生まれ、88年デビューだから若手とは呼べないが、脚光を浴びるようになったのは2000年代に入ってからで、とくに2009年以降は毎年のようにメジャーなSF賞を射止めている。その彼女の日本で初めての単行本が、この『霧に橋を架ける』だ。オリジナル編集で11篇が収録されている。



 どの作品もある種の寓話だが、一意的な教訓に帰着するものではない。アーシュラ・K・ル=グインは自作「オメラスから歩み去る人々」をpsychomyth(心の神話)と称したが、それに似た感触がある。ただし、ル=グインほどテーマ(哲学や倫理の問題)が瞭然としておらず、そのぶん読み手に委ねられる部分が多い。また、共同体を見据えているル=グインに比べ、ジョンスンは個人へかなり寄っている。



 巻頭に収められた「26モンキーズ、そして時の裂け目」は、消失マジックをおこなう26匹の猿を手に入れたエイミーの物語だ。舞台に設えたバスタブのなかへ猿が次々に飛びこみ、ぎっしりすし詰めになるといっせいに消える。どこへ行くかは誰にもわからない。猿たちは別々の場所へ旅しているようで、そこから数時間かけてエイミーのもとに歩いて帰ってくる。



 エイミーと猿たちとの出会いは偶然といえば偶然、運命的といえば運命的だった。夫が出奔し、妹に大腸癌が見つかり、自分が馘首され、考えなしに選んだ街のアパートに独りでいたとき、ユタ州特産市で猿の出し物を目にした。理由もわからぬまま、どうしても猿たちを手に入れなければならないと感じ、オーナーに交渉すると1ドルで売ってくれたのだ。彼も四年前におなじように猿たちを買ったという。26匹はリスザルからチンパンジーまで種類はさまざまだが、ゼブという名の一匹だけは老齢のため毛が抜け落ち種類がよくわからない。ゼブが死んだら、ショーはどうなるだろうとエイミーは考える。



 この世界は不確かで、厄難が突然に起こる。夫の裏切り、病気、失業、死......。それらに理由はあるのか? 消失マジックの仕組みがわからないように、不幸の理由もわからない。あるいは、猿たちは消える秘密を知っているのだろうか。しかし、彼らはそれをエイミーに教えはしない。また、それを非難することは誰にもできない。



 エイミーにとって26匹の猿(とりわけゼブ)は近しいものではあるが、意思が通じているわけではない。かけがえのない存在だが、いつか離れることも予感されている。そうした関係がそのまま彼女の人生を形づくっている。悲劇というほどドラマチックではないし、運命だといって達観できるわけでもない。



 この「近しいが、通じない」「かけがえないものだが、別離が待っている」という展開は、ほかの作品でも変奏される。「噛みつき猫」は、少女セアラと凶暴な猫ペニーの物語だ。ペニーを好きなのはセアラだけだが、ペニーは彼女にも噛みつく。両親の不和で居場所のない少女が、その気持ちを孤独な猫へ転嫁している----と、この物語を要約することもできる。しかし、ペニーの存在感はもうちょっと嵩張っていて、慰めや癒やしの役割にとどまらない。セアラの日常とはやはり異質なのだ。そして、エイミーの猿たちと同じように、不幸の理由について世界の秘密について何も語ってくれない。



「蜜蜂の川の流れる先で」では、水の流れの代わりに蜜蜂の大群からなる川が描かれ、幻想的な情景が際立つ。ストレートなSFならば、蜜蜂の川の成立経緯・機構・影響に話が及ぶところだが、ジョンスンはそういうことにはまったく興味がない。この川はいわば主人公リンナの内宇宙であり、彼女は最期が迫った愛犬サムとの旅でそこへ到達する。リンナとサムの関係は、エイミーと猿たち、あるいはセアラとペニーのそれよりもずっと親密だが、それでも埋められない距離がある。そして蜜蜂の川の先(それは精神の到達点かもしれない)では、むしろ愛情ゆえにリンナはサムを手放さなければならない。夢のなかにいるように、はかない余韻が長く残る結末だ。



 固い絆で結ばれていたふたつの存在が分かたれる点では同様だが、まったく異なる色合いで書かれた作品が「ポニー」だ。ここでは残酷なイニシエーションが演じられる。少女にはそれぞれのポニーがおり、もともとポニーは先端が丸い一本角と小さくてふわりとした羽を備え、喋ることができる。物語の発端は、年頃になったバーバラの元へ届いた招待状だ。かねてより憧れていたグループ《選抜ガール》のパーティ! 気に入ってもらえれば仲間になれる。グループに入るには(あるいは大人になるには)、ポニーの三つの特徴(角・羽・声)のうち二つを諦めなければならない。もとよりバーバラと、彼女のポニー(サニーという名だ)はそれを承知で、角と羽を差しだすつもりでいた。しかし、パーティでは待っていたのは、予期せぬなりゆきだった。簡単に言えば「無垢の喪失」が主題と言えるが、すべてが象徴やメタファーで解釈しつくせるわけではない。ここでも、ポニーの生命・生物としての存在感が大きい。戸惑いながらも周囲に流されるバーバラに対して、サニーは最後まで抗う。



「《変化》後のノース・パークで犬たちが進化させるトリックスターの物語」も、動物が持つ能力(ここでも声だ)が重要なモチーフとなる。動物が言葉を操るようになり、人間との関係が一変する。自分が飼う犬を愛し、犬のほうも飼い主を慕っている場合ですら、多くはその関係を維持できなくなる。犬が待遇改善を要求するわけではない。ただ、ペットに独自の意思があることに、飼い主が耐えられなくなるのだ。これを「マイノリティ/マジョリティ」の構図を当てはめて読むこともできる。作中でも「奴隷と主人」と表現されたりするので、作者も少なからず意識しているのかもしれない。



 しかし、そういう現実的な社会問題へ変換して捉えられないところがむしろ重要だ。この物語の視点人物リンナ(「蜜蜂の川の流れる先で」の主人公と同名だが、いちおう別々に考えたほうがいい)は、棄てられた犬が集まる公園へ行き、犬に食べ物をやり、埃色の小型犬ゴールドが語る物語に耳を傾ける。物語はどれも犬の物語で、ごく短く、寓話風だ。ただ犬の寓話なので、人間的な教訓は引きだせない。注目すべきは、先に述べた「マイノリティ/マジョリティ」の構図に、「語り手/聞き手」の関係がかぶさっていることだ。〔犬は二度と物語から自由になることはないだろうが、物語のおかげで犬は自由になるだろう〕と、リンナは思う。その彼女もけっして傍観者ではない。犬を遺棄・忌避する多数派でもなく、愛犬を飼いつづける少数派でもなく、わざわざ犬のところへ出向いて物語を聞く。これは特別な関係だ。



 やがて世論は野良犬の駆逐へと傾き、リンナは犬たちを救うための策を講じる。ストーリー上はこの作戦がいちばん動きがあるところだが、本来の読みどころはそれと相即してリンナ自身がそれまでの聞き手から語り手になることを選ぶくだりだ。彼女はそれによって何を乗り越えようとしたのか。この作品は本短篇集の最後に置かれている。まるでキジ・ジョンスンの創作姿勢を示すかのようだ。



(牧眞司)




『霧に橋を架ける (創元海外SF叢書)』
 著者:キジ・ジョンスン
 出版社:東京創元社
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