異様な雰囲気のなかで迎えた決勝。レース直前のセナは、ピットで静かに何かを見つめていた(撮影/池之平昌信)

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「呪われていたような週末だった」

当時、サーキットにいたカメラマンが口をそろえる94年のサンマリノGP。今なお、「史上最高のF1ドライバー」と称されるアイルトン・セナに、あの日、何が起きたのか? 

衝撃の死から20年。伝説のF1ドライバーを襲った“悲劇の3日間”を秘蔵写真で振り返る。

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日本のみならず、世界中のレースファンに愛されたセナが亡くなってから、今年で20年の節目となる。

最後のGPとなったサンマリノは、今あらためて振り返っても異様だった。アクシデントが続出し、まるで呪われていたかのようだ。

予選初日、セナの同郷の後輩R(ルーベンス)・バリチェロが、マシンが宙を舞うほどの大クラッシュを演じ、病院に運び込まれる。翌日には予選中の事故で、R(ローランド)・ラッツェンバーガーが死亡する悲劇が起きてしまう。1982年、カナダGP以来のレース開催期間中の死亡事故に、イモラ・サーキットは沈痛な空気に包まれた。

それでもレースは続けられ、運命の5月1日を迎える。

「レース前のセナの様子はいつもと違っていた」と語るのは、ピットから出る直前のセナを撮影した池之平昌信(いけのひらまさのぶ)氏だ。

「セナは限界ギリギリを超えた領域に、自由に出入りできるドライバーだったと思います。だからこそ予選であれだけの驚異的なタイムをたたき出すことができたのでしょう。ある意味、命を削って走っていた。そんなことができるドライバーはそうはいません。でも、そんなセナでさえ、あの日ピットを出る直前には、迷い、動揺しているように見えました」

午後2時、決勝レースが始まっても悲劇は続く。スタートでエンストしたマシンに後続車が突っ込むというアクシデントが発生。マシンの破片が観客席にまで飛び散り、負傷者が出る。サーキットは騒然とし、セーフティカーがコースインする波乱の幕開けとなった。見事なスタートダッシュを決めたセナは、当時25歳の若きM(ミハエル)・シューマッハを抑えてトップをキープ。セーフティカーが離れたレース再開後、セナはシューマッハを引き離そうとするが、一方のシューマッハも必死にセナの背後に食らいつく。

手に汗握る展開のまま、レースは7周目に入った。メインストレートを抜け、時速300キロ以上のハイスピードでタンブレロコーナーに駆けていった。

「ウィリアムズ時代のセナは、なぜか今までとは大きく変わっていた」と語るのは、セナの最後の走りを撮影した原富治雄(ふじお)氏だ。

「当時、最強のウィリアムズに加入したものの、ルール改正によって思い通りの結果が出ない。そんななか、シューマッハが頭角を現してきた。次世代の足音が聞こえてきたこともあり、焦りを感じていたのでは……。だからコース上では必要以上に無理をし、歯車が狂っている印象でした。サーキットではいつも集中し、尖(とが)っていましたね。しかし、この年は笑顔を見せることも多かった。メディアにも愛想がよく、ファンの人たちにもよく手を振ったりしていましたね。今にして思えば、お別れの挨拶をしていたのかなと感じます」

タンブレロの入り口でコントロールを失ったセナのマシンは、コンクリートウォールに激突。破片をまき散らしながらマシンはようやく止まる。しかしセナが自力でマシンから降りることはなかった。

あの日、セナの最後を最も近くで目撃したシューマッハは2年前に引退。現在のF1には、セナとともに戦ったドライバーはひとりもいない。そして今年は、セナが亡くなった94年生まれのドライバーがF1にデビューし、活躍するなど、時代は確実に移り変わっている。

しかし、純粋に勝利を求めて全身全霊で戦い、トップに上り詰めたまま逝ったセナの記憶は色あせない。この先もきっと。

(文/川原田剛 写真/原富治雄、池之平昌信)

アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva)

1960年3月21日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。84年にトールマンからF1デビューし、翌年のポルトガルで初優勝。88年にマクラーレン・ホン ダで初の世界王者に輝く。90年、91年にも同チームでタイトルを獲得。94年にウィリアムズ・ルノーに移籍するが、第3戦サンマリノで大クラッシュ。搬 送されたイタリア・ボローニャ市内の病院で死去した。享年34歳。優勝41回(歴代3位)、ポールポジション65回(歴代2位)