毎日がラクになる武術式身体運用法
■人間の体には科学では解明できないチカラがある
あらゆる分野において科学的なアプローチが進む昨今だが、一方で芸術やスポーツ、文化などの面で、古き時代の技法や慣習を見直そうとする動きもある。古武術の体の動きを現代に応用しているのが武術研究者、甲野善紀氏だ。けっして強豪校とはいえない桐朋学園バスケットボール部が目を見張るような成績を残し、かつて読売巨人軍に在籍していた桑田真澄氏が2軍落ちから復活するなど、甲野氏が提唱する武術の動きは周囲をアッと言わせるような成果を挙げ、広く知られるようになった。現在ではスポーツ界に限らず、音楽界やロボット工学などの分野からも注目される甲野氏の武術論、そして初心者にも実践できて日常生活に役立つ武術的身体運用法を聞いた。
──編集部(以下省略) そもそも甲野さんが武術に着目されたきっかけは何だったのですか?
甲野氏(以下省略) 日本には、武術に関する昔の驚異的なエピソードがたくさん残っています。しかしながら今それを再現できる人が誰もいません。できる人がいないということは、うそだったと思われかねない。今の柔道や剣道の指導者、関係者は考えないようにしているのかもしれませんが、私にはどうしてもうそとは思えないので、それがどうしてできたかを研究しています。なぜ今できないのか、その理由を解明するために、今の稽古法が昔とは根本的に違っていると思うようになりました。
──現代と昔の稽古法ではどんな点が違うのでしょう?
今のトレーニングはよく科学的などといいますけど、私から見れば非常にローテクというか不合理。体の使い方を研究しようとせず、ただ単に筋肉を強くすることに固執しているように思います。つまり、身体の運動を文字で説明しやすい単純なシステムと仮定して、パフォーマンスを上げようとしているのです。なぜこのようなトレーニングになってしまったかというと、論文が書けて科学的に証明されることを主眼にしているからでしょう。しかし、人間の体は非常に複雑なので論文で証明できるほど単純なものではありません。
──科学では証明できないことが、武術ではでき得るのですね。
そうです。物理には三体問題というものがあって、3つのものの関係が同時にどのように作用しているかを説明することができない。言語による思考という関係上、AとBの2つの関係しか扱うことができないのです。でも人の体はいくつもの要素が組み合わさって感覚で統御しています。例えば、手の形ひとつで下半身が強くなるのですが、そのことを大学の専門家の前で実演しても、誰一人として説明できないんですよ。
■のぼり・くだりの動作が劇的にラクになる「虎拉ぎ」
──下半身が強くなる手の形とはどんなものですか?
私は「虎拉ぎ(とらひしぎ)」と呼んでいます。親指を手の平側に内旋させ、次に親指と逆方向に向かうように人差し指を外側に旋回させます。親指と人差し指を中心として、前腕から上腕に及ぶ腕の内側に拮抗状態をつくり肩を下げます。それが虎拉ぎの手の形です。
──虎拉ぎにはどんな効果があるのでしょう?
虎拉ぎは手の技でありながらその効果が脚部に現れ、下半身が非常に強力になります。武術的には寝技に対して大変強くなります。虎拉ぎをかけたときの体の動きを外側から眺めると、体の中に1本の軸が入っているかのように見えます。例えば、少し離れた段差にゆっくり上がろうとすると、よろめいてしまい重心移動がスムーズにできません。ジャンプするか横向きになってから反動を付けないと上がれませんが、虎拉ぎをかけると下半身が強靱化してすっと上がることができます。この手の形は私が気付いたのですが、この形による脚部の強化という効果に気付いたのは武術研究者の北川智久氏の功績です。
──手の形ひとつで下半身が安定するというのは不思議ですね。
この虎拉ぎの驚くべき点は、非常に効果的な技であるにもかかわらず、武術を知らない方でもすぐに習得でき、その効果が体感できることでしょう。日常生活で直面するのぼり・くだりの動きに効果を発揮します。階段や段差、坂道といった安定感が求められる場面でも使えますし、登山やハイキングをされる方は、山歩きの最中にも効果が実感できるはずです。
■介護や救護の場面で有効な「撃鉄を起こす手」
──ほかに初心者でも使える技はありますか?
もうひとつ「撃鉄を起こす手」と呼んでいる手の形があります。これは親指を鉤状にするのがポイントです。かつてアメリカ西部で使われていたシングルアクションの拳銃の撃鉄を起こすときの親指の使い方に似ているため、そう名付けたのです。
──この技にはどんな効果がありますか?
例えば、椅子や床に座っている人を起こす時に有効です。介護や救護などの場面で、足が利かなくなった人を立ち上がらせるのは意外と大変なものです。通常であれば自分の足を踏ん張って、その力を利用して起こそうとしますが、この方法では腕の力しか使えなくなります。そこで撃鉄を起こす手を交差させてそこをつかんでもらい、体を後方に倒すようにゆっくり後ろに下がると、不思議なまでに相手が自然と起き上がります。撃鉄を起こす手の形にすると、腕と体幹部のつながりができ、腕の筋力に頼らず足腰の力が使えるので大きな力を出すことができるのです。女性でも楽に相手を起こすことができるはずです。
──親指の使い方で腕と体幹がつながるというのも驚きですね。
人間の体は科学的に証明できないことが多いというのは、こういうことなのです。武術の世界は奥が深く、私自身、さらなる技の進展を日々探求しています。初心者でも使える技がまだまだありますので、武術由来の技の効果、そして人間の体の奥深さをぜひ体感してみてください。
(取材・文・撮影/デュウ)