浅田真央と佐藤信夫コーチ(手前)/Photo by PHOTO KISHIMOTO

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「真央が倒れたら、止められてでも僕が必ず助けに行くから」。ソチ五輪のショートプログラムを終え、失意の底にいた浅田真央に対し、佐藤信夫コーチがかけた言葉はフリースケーティングにおける彼女の感動的な演技とともに大きく報じられた。

フジテレビ「ワンダフルライフ」(20日放送分)では、ゲストで出演した佐藤コーチがこの時の様子を詳しく語っている。

「夜遅いから、4〜5時間」という睡眠時間で朝5時30分過ぎにはリンクに向かい、初心者の子供から大学生まで、時間を区切って指導を続け長い日には1日8時間以上もリンクに立ち続ける佐藤コーチ。「フィギュアスケートっていうスポーツはあまりにも細かい。やることが。一つずつ教わって一つずつ身につけていかないとその先には繋がってこない」。これが佐藤コーチが“出来るまで待つ”という姿勢で指導に臨む理由だ。

そんな佐藤コーチのもと三年をかけて徹底的に基礎を磨き直してソチ五輪に臨んだ浅田だったが、ショートプログラムではミスを連発、まさかの16位に。この時の様子を振り返った佐藤コーチは、約35年前となる1980年レークプラシッド五輪の前日、高熱を出した松村充氏(現・フィギュアスケートコーチ)を励ますために、この言葉を用いたことを明かすと「松村充の時にそういう風に言ったんです。で、その話はそれっきりすっかり忘れていたんです。今回ショートプログラムが終わって、なんとかしないといけないと思ったときに、誰も使ってないからって男子の更衣室に行って色んな話をしている時にふと“昔こんなことがあったんだよ”って思い出して、その話をしたんです」と、浅田とのやり取りを詳細に説明した。

それでも、「(失意の浅田は)聞いてるのかいないのか分からない。何の反応も示さなかった」と苦笑いを浮かべる佐藤コーチは、「何も聞いてないんだろうな。とにかく貴方はやるだけの練習をやってきたんだから、自分を信じてやってごらんなさいって言って、その場は別れたんです」と続けたが、その言葉はしっかりと浅田に届いていた。佐藤コーチは「私は行かなかったんですけど、必ずミックスゾーンを通らなきゃいけない。そしたら彼女がその話を(マスコミに)したらしいんですね。なんだか、知らん顔してたけど聞いてたんだって思って、やっぱり感無量だったですね」と話すと改めて涙を流した。

また、母を亡くした直後、「スケートを辞めたい」と浅田が相談してきたことについて訊かれると、「確か、ニース(2013年3月)の後だったと思うんですけど」と前置きした佐藤コーチ。「全然連絡ないからどうするのかなって思って、声をかけたら“滑る気がしない”っていうから。貴方の気持ちはよく分かるよって。誰だってそういう時はない方がおかしい。だから、思い切り悩んで考えて、もしも貴方がもう一度やってみよう、氷に戻ろうって思うんだったら声かけてくればいいから。それまでどれだけ時間をかけてもいいから、しっかり悩みなさいっていう話をして別れた」と話し、ここでも浅田を立ち直らせるためにかけた言葉の一端を明かした。