ソチ・パラリンピックのアルペンスキー競技は3月8日、滑降で幕を開けた。時速100kmを超えるスピードで競うこの種目で、座位(シッティング)クラスの森井大輝(富士通セミコンダクター)はスタート直後に激しく転倒。全身を叩きつけられながら、急斜面を滑り落ちていった。全身を襲う強い痛み。しかしコーチのもとに向かうと、森井はすぐさま無線機を手に取り、後から滑る選手たちのために、身を持って得たコース状況の情報を伝えた。

 この滑降で、狩野亮(マルハン)が金メダルの栄誉をつかみ、鈴木猛史(駿河台大職員)も銅メダルを獲得。森井は、身体の痛みと悔しい気持ちを押さえながら、後輩たちの活躍を祝福した。これこそがまさしく、彼が望み、作り上げようとしてきたチームの形だった。

 たとえ自分が転倒しても、他の選手がいる。森井が描き続けてきたのは、そんなチームだ。チームメイトの力を信じることができるから、自分は全力を出せる。そして、身近なライバルの存在が、自分をもっと強くする。今の日本チームにはこの森井の持論、言うなれば"大輝イズム"が深く浸透している。その成果が表れたのだから、2人のメダリストを心から祝福するのは彼にとって自然なことだった――。

 パラリンピックアスリート森井大輝の原点は、1998年の長野パラリンピックにある。大会の様子を、森井大輝は病院のベッドで見ていた。前年の春、バイクで転倒して脊髄を損傷。突然、思いどおりに動かなくなった自らの肉体を嘆き、希望を失っていた。しかし、テレビに映るパラリンピック選手たちは皆、自由自在にスキーを操り、ゴールではとびきりの笑顔を見せている。自分と同じ障害者なのに、なぜあんなに笑えるのだろう。自分も同じように笑いたい。自然に沸き起こったその感情が、失意の森井を雪の上へと導き出した。

 チェアスキー(専用のいすに1本のスキーを取り付けた特製スキー)に乗り始めた森井は、幼い頃から発揮していた運動能力を生かし、瞬(またた)く間に国内のトップ選手へと上り詰めていく。だが、自信を持って臨んだ2002年のソルトレイク・パラリンピックで、世界の壁の高さを思い知らされる。回転6位、大回転8位で、初出場にしては健闘したと周囲には言われたが、森井自身は惨敗と受け止めた。そしてこのときから、彼はそれまでの自分自身をすべて変え、アスリートとしての道を究める覚悟を決めた。

 まず取り組んだのが、肉体改造だった。海外勢に「ヘイ、ガール!」とからかわれるような華奢な肉体では、スピードや急斜面に耐えて正確なスキー操作をすることなどできない。そのことを痛感した森井は、トレーナーとともに本格的なトレーニングに取り組むようになった。もともと、何かを始めたら徹底的にやらないと気がすまないタイプ。自分の身体が変わっていくおもしろさに夢中になり、いつしか彼の上半身は筋肉のかたまりへと変貌した。

 用具、そして滑りのテクニックの研究にも人一倍の情熱を注いだ。サスペンションのセッティング、身体にフィットさせるためのシートやポジションの調整は、深夜にまで及ぶことも珍しくなかった。そうして作り上げたマシンと一体になって滑る森井の先鋭的なテクニックは、徐々に世界各国からマークされるようになっていった。

 2度目のパラリンピック出場となった2006年トリノ大会では、自身初の銀メダルを大回転で獲得。さらに、2010年バンクーバー大会でも、滑走で銀とスーパー大回転で銅を手に入れた。残された目標はただひとつ。すでに国の枠組みを超え、世界を牽引するリーダー的存在となった森井にとって、どうしてもかなえたい夢が、パラリンピックの金メダルだった。森井のその執念は後輩たちをも巻き込み、日本選手たちの総合力を高めていく。チームの主力である狩野の急成長も、本人の努力に加え、森井のリーダーシップが存在したからこそ成し得たものと言えるだろう。

 金メダルを目指し、並々ならぬ決意で乗り込んできたソチの初戦で、まさかの転倒。身体に残るダメージを抱えながら、森井は翌日のスーパー大回転に臨んだ。本調子ではないとはいえ、世界最高と称されるテクニックは転倒者続出の難コースでも存分に発揮されて、狩野に次ぐ2位となり銀メダルを確保。これで、メダルなしという最悪の結果をまずは避けることができた。残りは3種目。その中には、彼がもっとも得意とする大回転も含まれている。

 確たることは誰にも言えない。だが、はっきりしているのは、その瞬間が訪れたなら、かつて経験したことのないほどの祝福の嵐が、チームメイトから、そして世界のライバルたちから、森井大輝に浴びせられるであろうということだ。

堀切 功●文 text by Horikiri Isao