今週はこれを読め! SF編

 本書『ピース』は、ぼく(名前はオールデン・デニス・ウィア)の一人称で綴られる。第一章のぼくは老いて身体が不自由だ。体調がいっこうに良くならないので、頻繁に医者を替える。「死んだ医者でも相談相手にはことたりる」から、ぼくはブラック先生とヴァン・ネス先生に診てもらう。----この冒頭部分を読んだだけで、ジーン・ウルフの愛読者なら身がまえをし(あるいは目を輝かせ)、慣れぬ読者は面食らうだろう。死んだ医者に診てもらう?



 ぼく(ウィア)はそう書きつけたあと、ヴァン・ネス先生の医院へ行く。待合室のようす、そこに座っている患者たち、看護婦とのやりとり、そしてヴァン・ネス先生の診察。ぼくは訴える「脳卒中を起こしたんで助けてほしい」。----と、ここで読者はまた身がまえ/目を輝かせ/面食らう。脳卒中を起こした患者が自分で診察を受けにいけるものか? しかも死んでいる医者のところへ?



 なにかの比喩かもしれないし、ウィアの幻想と見なすこともできるが、ウルフの文章は(それはとりもなおさずウィアの意識だが)一筋縄では計れない。また、これから読むみなさんへお節介ながらに忠告しておくと、待合室にいるほかの患者のことを覚えておいたほうがいい。この場面では点景として置かれている彼らだが、のちのち重要な役回りで登場する。そのとき、彼らがこの待合室にいたことに意味があったと、読者は気づくはずだ。よしんば気づかないとしても(もしくはその意味が誰にもわからないとしても)、用心に越したことはない。ウルフの小説なのだから。細部に平然とさりげない仕掛けがあるのだから。



『ピース』はアメリカ中西部の町キャシオンズヴィルを舞台にし、ウィアの回想のなかで言及されるいくつもの物語・伝承・風説をべつにすれば、ファンタスティックなできごとはほとんど起こらない。ウィアが生身ではない可能性はあるが、いわゆるゴーストストーリーのような超自然の働きはない。かといって、これが現実的な物語----SFファン流のカテゴライズでいう「普通小説」----かというと、決定的に違う。



 たとえば、第二章は少年時代のウィアがともに暮らした叔母オリヴィアが主役で、彼女が精巧な工芸品の卵を探索し、そこに三人の求婚者が絡んでくる。そのなりゆきにウィアが読んでいるお伽噺(塔に住む王女)、ひとから伝え聞いたアイルランドの説話(勇者の鼠退治)、自動車の移動中に耽った夢想(魔神の洞窟)が挿入されるのだが、それぞれの内容がオリヴィアと求婚者たちの運命と微妙に照応している。そして、この卵をめぐる経緯は、第三章以降にも残響のように繰り返し立ちあらわれる。



 第三章もそれにおとらず謎めいている。冒頭は第一章のつづきらしく、ウィアはヴァン・ネス先生の診療室にいて主観統覚テストカードによる検査を受ける。カードの絵柄を挿絵に見立て、それに合った物語をつくるのだ。彼は「邯鄲の夢」(一生をすごしたつもりでいたが目覚めると一夜の夢だった)そのままの寓話を披露するのだが、もしかするとこれもウィア自身の運命と照応しているのだろうか?



 それにしても不可解なのは、「邯鄲の夢」を語り終えたウィアがヴァン・ネス先生の診察室ではなく、またオリヴィアと暮らしていた少年時代へ戻っていることだ。いや、これはまだ物語のさなかなのか。第三章の幕切れでウィアは医師の診察を受けるのだが、それはヴァン・ネス先生ではない。ブラック先生----そう、第一章で言及されていたもうひとりの「死んだ医者」である。少年ウィアは「ぼくは脳卒中を起こしたんです」と言い、ブラック先生に笑われる。しかしウィアは大真面目に「ぼくは老人だが、先生に相談する必要があったので、過去に自分を投射したんです」と説明する。



 伝統的SFの流儀ならば一種の時間旅行だが、わざわざそんな嵩張る説明をせずとも『ピース』全体を「記憶の文学」と捉えればすっきりする。ただし「死にかけたウィアが人生を回想している」式の一意的解釈は禁物だ。ここには、自分の将来を知らないウィア少年もいれば、中年になって図書館で本を探すウィア(天下の奇書をめぐる冒険は第四章で詳しく語られる)もいる。ほんらいの記憶とは、固定された意識(過去を振り返るような)ではなく、さまざまな時間にまたがる想起・忘却・連想・混同が継ぎ目なく去来する運動だ。そこには実際の経験だけではなく、見聞きしたもの(過去の作品や誰かの言葉)や想像したものも織りこまれていく(そしていま書きつづけるうちに織りなされつつもある)。それを象徴するのがウィアの住居だ。






 この家の玄関を設計するにあたって、ぼくはブレインの家の玄関ホールを再現しようと試みた----と言っても巻尺で測ったような現実としてではなく、ぼくの記憶にあるとおりの現実として。現存する「生きて、呼吸し、存在する」ぼくの記憶が、いまは滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的でないなどとどうして言えるだろう。(p.112)






 そして、その記憶のメカニズムは芸術のありようとも不可分だ。第四章でウィアが遭遇する稀覯本贋作師ゴールド(彼は『ネクロノミコン』も手がけている)は、こう言い放つ。





「あらゆる人間が、生者も死者も含めて、ひとつの無意識の領域を共有しているのかもしれません。多くの偉大な哲学者がそう考えていました。またその無意識には人以外のものも加わっているかもしれません。いとも速やかに世界は自らを形づくり、わたしの書くものに結実する。それともわたしは自分が知る以上のことを書いているのか----わたしの同胞はみんなそうなのかもしれません。」(p.302)





 この考えを敷衍すれば、主体(オリジナルな物語の特権的な語り手)や、唯一の事実(起源となる正典)という発想が、そもそも錯誤だろう。『ピース」はそれを自覚的に小説構造へ繰りこんでいる。----と、まあ、そう言ってしまうのは簡単だが、だからといって何でもあり(事実など求めても無駄だ)ということにはならない。前述した挿話と枠物語の照応関係をはじめ、どこかに「解」や「鍵」が隠されているのではないかと探求心をそそらずにはおかない。精読を何度も繰り返すことで、自分の手で『ピース』空間の見取り図を精緻化していくのが、もっとも豊かな読書の喜びだ。



(牧眞司)




『ピース』
 著者:ジーン・ウルフ
 出版社:国書刊行会
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