藤子・F・不二雄大全集『オバケのQ太郎11』(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A著、小学館)
『オバケのQ太郎』は、「週刊少年サンデー」での連載と並行して、小学館の学年誌でも連載されていた。全集のこの巻にはそのうち「小学六年生」の掲載分のほか、「女学生の友」に連載されたスピンオフ作品「オバケのP子日記」、そして、藤子たち自身を主人公にオバQ誕生までの経緯を描いた「スタジオ ボロ物語」が収録されている。

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2014年1月で誕生からちょうど50年を迎えたキャラクターがいる。それは藤子不二雄の同名マンガの主人公・オバケのQ太郎だ。「オバQ」「Qちゃん」とも呼ばれ、いまでも親しまれているこのキャラクターの誕生日について、ネット上では「1964年2月28日」としているサイトもあるが、これはおそらく間違いだろう。

『オバケのQ太郎』の連載は「週刊少年サンデー」1964年6号から始まっている。同号の発売が同年1月22日で、誌面にクレジットされた発行日は2月2日だった。“2月28日説”はおそらく、原作者の一人・安孫子素雄=藤子不二雄Aが、自伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』(藤本弘=藤子・F・不二雄との共著)で、『オバQ』の初回は「少年サンデー」の2月28日号に掲載されたと誤って書いたことから広まったのではなかろうか。

藤子不二雄の2人が1987年にコンビを解消して以降、『オバケのQ太郎』の単行本は長らく手に入らない状態が続いた。これというのも、安孫子と藤本の合作で、権利関係が複雑だったためだ。ようやく2009年、小学館の「藤子・F・不二雄大全集」に『オバケのQ太郎』も収録され、ふたたび日の目を見ることになったのは、ファンにはありがたいかぎりだ。

「少年サンデー」での『オバケのQ太郎』の連載は、当初7回の予定が2回分延びて9回となったとはいえ、読者からの反響がなかったためそれでいったん打ち切りになっている。が、しばらくして「どうしてオバQをやめたのか! また始めてください」という読者からのハガキが殺到したことから、連載は再開される。

初期の連載分を収録した全集版『オバケのQ太郎1』を読んでいると、藤子とはあきらかに違うタッチのキャラクターがまざっていることに気づく。じつは初期の『オバQ』は、安孫子と藤本だけでなく、石森(のち石ノ森)章太郎らが作画にかかわっていたのだ。連載時のクレジットも「藤子不二雄とスタジオ・ゼロ」となっていた。

スタジオゼロとは、オバQ誕生の前年の1963年、かつてトキワ荘に住んでいたり出入りしていた、藤子や石森、鈴木伸一、つのだじろうといったマンガ家たちによって設立されたアニメ制作会社だ。

この年、横山隆一の「おとぎプロ」でアニメのつくり方を一から学んだ鈴木が独立、久々にトキワ荘の仲間たちと会った際、みんなでアニメをつくるため会社をつくろうという話が持ち上がる。だが、会社をどうやってつくればいいのか誰も知らない。つのだのツテで会計事務所に相談に赴くも、資本金が必要だということすら知らなかったり、会社運営も社長を決めずみんなで相談して行なうと言い出したりと、会計士をあきれさせる始末であった。結局、資本金は各自が持ち寄り、社長はあみだくじで鈴木に決まる。また事務担当として、つのだの兄・角田喜代一を迎えた。なお、このへんのドタバタは、藤本の短編「スタジオ ボロ物語」(1973年。全集版『オバケのQ太郎11』所収)や、幸森軍也『ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語』でも描かれている。

『オバケのQ太郎』の連載は、このスタジオゼロの「雑誌部」の仕事ということで始まった。もっとも、雑誌部は『オバQ』の連載にともない、藤本の提案で新設されたものだ。そうなったのにはいくつかの事情があった。

一つには、会社設立からまもなくして、手塚治虫の虫プロダクションからテレビアニメ「鉄腕アトム」の1話分(サブタイトルは「ミドロが沼」)の制作を請け負った経験があげられる。「アトム」はいうまでもなく、1963年元日より放送開始された、国産の連続テレビアニメの嚆矢だ。手塚としては、「アトム」を1話だけでもスタジオゼロに任せて、虫プロのスタッフに夏休みをとらせる予定であった。

スタジオゼロの面々も思いがけない発注に奮起して、各自のマンガの仕事をひとまず置きながらアニメづくりに全力を注ぐ。が、結果は芳しいものではなかった。アトムの顔も等身も一定せず、絵柄がバラバラになってしまったのだ。結局、虫プロのほうで修正することになり、一部のスタッフは夏休みを返上しなければならなかった(前出の幸森『ゼロの肖像』はこうなった原因として作画監督の不在をあげる。もっとも、作画監督システムはまさにこの年、東映動画が日本で初めて採用して広まったものなので、無理からぬことではあったのだが)。この失敗から、藤子たちはアニメーターには向いていないと気づき、ふたたびマンガに専念することになった。

それでも、みんなで立ち上げた会社は支えていかなければならない。そこへ飛びこんできたのが、「少年サンデー」から藤子不二雄への連載依頼であった。1963年暮れの最初の編集者との打ち合わせには、藤本だけが出席し、「オバケが主人公の爆笑マンガはどうか」と切り出される。編集者の頭には、当時放送されていたアメリカ製のテレビアニメ「出てこい!キャスパー」があったという。藤本もオバケの話は大好きで、すぐにこの話に乗った。そしてその場で、「その原稿料をスタジオゼロに払ってもらうことはできますか」と頼んでいる。なかなか思い切った決断だが、それほどまでにスタジオゼロの経営は逼迫していたのだ。

とはいえ、藤子は当時、月刊連載を多数抱え、そこに週刊連載を加えるのは容易ではなかった。最初の打ち合わせのあとで藤本から話を聞いた安孫子は、「無理だろ」と思ったという。だが、スタジオゼロのメンバーの手を借りれば乗り切れると藤本が提案、これには会社側も定期的な財源ができるとあって大歓迎であった。

こうして連載を引き受けることになったものの、肝心の作品のアイデアがなかなかまとまらない。それでも連載開始の前号に予告カットを出すため、タイトルとキャラクターデザインだけでも決定しておかなければならなかった。タイトルはまず『オバケの○太郎』と決め、○のなかにふさわしい文字を当てはめることにしたものの、なかなかしっくり来るものがない。それが「Q太郎」に決まったのは、気分転換に入った書店で、魯迅の『阿Q正伝』が藤本の目に飛びこんできたからだとも、安孫子が安部公房の本をめくっていたところQの文字が目についたからだとも伝えられる。キャラクターデザインは「ペンギンをモデルに、かわいいのをつくった」のだが、掲載された予告カット(全集版『オバケのQ太郎1』の巻末に再録)を見るかぎり、頭でっかちで、後年のQ太郎とくらべるとあまりかわいくない。頭の毛ものちにトレードマークとなる3本ではなく6本あり、その数は連載が始まってもしばらく定まらなかった。

第1回分の話の骨格は、藤本と安孫子が、川崎市生田にある自宅から都内の職場へ向かう小田急の電車内で練った。安孫子が書く通り《オバQ一回目のアイディアをオダ急の中で決めた、というのは偶然とはいえデキスギ》ではあるが(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』)。藤本の「スタジオ ボロ物語」には、人間の世界へやって来たオバケがどこかに住みつく「定住型」にするか、それとも放浪させる「放浪型」にするか、2人が車内で議論するシーンが出てくる。結局は前者に決まるわけだが、こうした異界から来た主人公が人間世界に定住するというパターンは、その後の藤本の『ウメ星デンカ』『ドラえもん』、安孫子の『忍者ハットリくん』『怪物くん』など、藤子マンガの定番となることを思えば、重要な選択であったといえる。

オバケが居候する家庭には子供が二人、名前は兄が伸ちゃん、弟が正ちゃんと、スタジオゼロのメンバーである鈴木伸一と石森章太郎の名前からとった。オバケの登場のしかたについては、恐竜好きの藤本が卵から生まれるというアイデアを出す。さらにオバケと正ちゃんが出会うシチュエーションは、スタジオゼロの社屋の近所で、子供たちが忍者ごっこをしていたのを使うことにした。当時、白土三平『サスケ』や横山光輝『伊賀の影丸』などのマンガやテレビ番組によって、子供たちのあいだで忍者ブームが起こっていたのだ。

こうして決まった骨格にもとづき、藤本がQ太郎、安孫子が正ちゃん、石森がガキ大将のゴジラ(雑誌掲載時には「ユウちゃん」となっていた)はじめ脇役という具合に分担しながら、第1回を描きあげた。以後も合作が続き、正ちゃんのガールフレンド・よっちゃんなどの少女キャラはあきらかに石森タッチだし、「オバケ大会」(全集版『オバケのQ太郎1』所収)という話では、スタジオゼロのメンバーとかかわりの深い園山俊二が描いたと思しきゴリラ顔の中年男まで登場する。個性の強いマンガ家たちによる合作であることこそ、初期『オバQ』の醍醐味ともいえるかもしれない。ついでにいえば、「Qちゃんのおつかい」(同上)で初登場する、おなじみの藤子キャラ「ラーメンの小池さん」は、鈴木伸一をモデルにしている。

この時期、トキワ荘時代の仲間の一人・赤塚不二夫(のちスタジオゼロにも参加)が、同じく「少年サンデー」連載の『おそ松くん』で大躍進を続けていた。安孫子と藤本はそれを尻目に、《おれたちは地味な漫画家だから、コツコツ当てて打率を稼ごう。一発狙うと三振するから》と冗談めかして言っていたという。が、本音ではやはり大ホームランを打ってみたかった(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』)。『オバケのQ太郎』はそこへ飛び出したまさに特大ホームランであり、雑誌連載開始の翌年、1965年にはテレビアニメ化され(スタジオゼロはパイロット版こそつくったものの、本放送は東京ムービーの制作であった)、関連商品も多数出て大ブームを巻き起こす。

ただしアニメ化は結果的に『オバケのQ太郎』の連載終了を早めてしまうことになる。というのも、作品自体はまだ十分に人気はあったものの、アニメのスポンサーだった菓子メーカーが、オバQ関連の商品の落ちこみから新しいキャラクターの検討を求めたためだ(大野茂『サンデーとマガジン』)。これを受けて「少年サンデー」での『オバQ』の連載は1966年末をもって終了、翌年1月からは新たな藤子作品として『パーマン』(藤本作)が始まった。

『オバQ』の連載終了をもって、藤本と安孫子は「藤子不二雄」のペンネームはそのままにしつつ、以後、おのおの作品を発表していくことになった。1971年から73年にかけて小学館の学年誌で連載された『新・オバケのQ太郎』は藤本の単独作品である。

ちょうど『新・オバケのQ太郎』の連載が終わった1973年には、青年誌「ビッグコミック」に藤本の異色短編「劇画・オバQ」(全集版『SF・異色短編1』などに収録)が発表されている。これは、Q太郎と大人になった正ちゃんたちとの久々の再会を通じて子供時代の終わりを描いた、ちょっとほろ苦い作品だ。

思えば、『オバケのQ太郎』という作品自体、藤本にとっては、安孫子との関係からいえば少年時代からの夢の一つの到達点を、トキワ荘の仲間たちとの関係からすれば、青春の終わりを象徴するものといっていいだろう(スタジオゼロも1970年に解散している)。そう考えるにつけ、「劇画・オバQ」には、藤本の『オバQ』に対するさまざまな感慨が込められているような気がしてならない。
(近藤正高)